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僕はもともと海外旅行に行く気なんてまったくなかった。大学の卒業を前にして、親切な叔母が資金援助してやるから海外旅行にでも行ってきたらどうかと言ってくれたときも、何となく面倒くさそうで気乗りのしない返事を続けていた。

それでもたまたま仲のいい友達とロンドンへ行こうという話がまとまり、格安チケットを買って1週間強のロンドン旅行に出かけた。ヴィクトリア駅近くのB&Bに部屋を取り、毎日レコード屋をはしごしたり、ライヴや映画を見に行ったり、伯父が紹介してくれたイギリス人の家に招かれたりした。そして何十枚かのCDを買い込み、バカみたいに重くなったカバンを引きずって日本に帰ってきた。

この1週間のロンドン旅行で、僕はイギリスという国が、ロンドンという街が、本当に地球の裏側にあってそこではたくさんの外人が毎日当たり前のような顔をして暮らしているのだということを目の当たりにした。そして、たとえ観光でも物見遊山でも、実際にそこへ出かけてこの目で見るということが代え難い体験になるということを学んだ。



次に海外に行く機会がめぐってきたのは、就職して3年目の秋だった。ドイツへ1年間語学研修に行くべしという内示が出たのである。ドイツ語は確かに大学で第2外国語として学んだが、そんなものは卒業と同時に、いや試験終了と同時にどこかへ消えてしまって、当時の僕はアルファベットはGまで、数字は3までしか読めない有様だったし、当時僕は今の妻と結婚の日程を話し合っていて、1年間のドイツ行きはまったくの予想外だった。

まずは四谷のエンデルレ書店というところで3カ月の事前研修を受けることになった。毎日独身寮から直接教室に通い、夜までレベルの違うレッスンを平行して2、3クラスこなすという無茶なスケジュールで3カ月、恐ろしいもので翌年1月にはゲーテ協会のZDAFという初級試験に合格するまでになった。

92年の1月終わりにはドイツに渡り、マンハイムという工業都市のゲーテ協会で2カ月のレッスンを3コース、都合6カ月の語学研修を受けることになった。来てみると、授業は午前中で終わりだし、学期の間には1週間ほどの休みがあるし、それにマンハイムは交通の要衝で、ミュンヘンもハンブルクもパリもミラノも列車で一本、まるで旅行に出ないなんてバカだといわんばかりの情況である。学生時代と違ってそれなりに給料ももらっているから列車の旅行なら毎週出ても問題ない。かくして僕はドイツにいる間に可能な限り多くの街を旅行することをこの研修のテーマにしようと決めたのだった。

しかしもう一つ決定的だったのは、一緒に旅行する友達である。同じゲーテ協会で研修していた同業他社の友達とは、語学力も給料も同じ程度で仕事の話題も合い、何より入社が同期だったので気がねもなく、ヨーロッパ各地への旅行を一緒に計画しては出かけた。僕ひとりではやはり限界があっただろうと思う。

この6カ月で僕は50近くの街を訪れた。一番長かったのは南欧周遊の旅で、フランクフルトから飛行機でリスボンに入り、夜行でマドリッド、バルセロナ、モナコ、ローマと移動し、それからさらに列車でフィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノをまわってマンハイムに帰ってくるという10日間ほどの日程だった。ミラノからスイスを経由し1日がかりでマンハイムまで帰り着いたときにはさすがにぐったり、ヒゲも伸び放題だった。

この他にも夜行でウィーンに入り、ウィーンのハンガリー大使館とチェコ大使館でビザを取ってそのままブダペスト、プラハをまわって帰ってきたとか、日帰りでルクセンブルクとか、とにかく一つでも多くの国、街を訪れることを目標に旅行を重ねた。パリもベルリンもこの時期に出かけた。

8月には語学研修も一応終わり、続いて支店研修ということでデュッセルドルフに移った。この時期には主にオランダとかベルギーをひとりでまわった。研修とはいえ毎日スーツで支店に出勤している訳で、時間の融通もつきにくくなり、金曜日の夜行でデンマークのコペンハーゲンに入り、土曜日の日中観光してその日の夜行でデュッセルドルフに帰るなんて旅行もした。

さらに11月には支店研修の後期としてフランクフルトに移った。この時期には残しておいたスイスに毎週のように出かけた。季節は冬に向かい、日が短くオフシーズンだったが、それでも国の数を増やしたい一心で、スイスとオーストリアにはさまれた小国リヒテンシュタインまで出かけたりもした。

この1年は本当に楽しかった。給料をもらいながら大した仕事もせずあとは旅行してるだけ。旅行先から必ず今の妻に出していた絵はがきを彼女が律儀に順番にファイルしてくれていて(通し番号つけて送っていた僕も律儀だったのだろうが)、それを見返すたびに、20代の後半になってヨーロッパ中を汚い格好でリュックを背負って旅行してまわるチャンスに恵まれたのは本当にラッキーだったと実感する。どこだって取りあえず行ってみればあとは何とかなるんだという感覚はその後の僕に大きな影響を与えたと思う。



翌93年1月に、無事1年間の研修を終えて帰国、国際業務とは何の関係もない普通の支店に配属され、しばらくは海外といえば新婚旅行のハワイだけだったが、94年の秋、再び人事部に呼び出され、今度はデュッセルドルフ支店勤務の内示を受けた。まあ一回研修に行っているのだからいずれ正式勤務になることも予想はしていたが、それにしてもいかにも早かった。

95年1月、まる2年ぶりにドイツに渡った。家族ができ、クルマを買ったことで旅行のスタイルは大きく変わった。泊まるホテルのクラスも変わってきちんと予約するようになったし、飛行機も使うようになった。それでも、見知らぬ土地に出かけて行ってそこの空気を吸って帰ってくるというだけの旅行ですら楽しいという気持ちは変わらない。

もしかしたら一生何の関わりもなく終わったかもしれない国や街にほんの短い間であっても実際にいたことがあるということ、そのことは必ず自分の想像力を鍛えてくれるだろう。パックだって買い物だって初めは何だっていい、とにかく日本人でない人たちが日本語でない言葉で普通にしゃべっている土地へ、そこで何かを見つけなければならないなんていう気負いなしで、取りあえず行ってみることだと思う。

僕の場合は会社が僕の重い尻を叩いてくれた。僕はヨーロッパ(とハワイ)しか知らないけれど、それだけでも僕は随分いろんなことを結果として学んだし覚えた。そういう経験を、もっと多くの人がしてもいいと思う。


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