logo 正しさについて


大学生のころ、僕は友だちに、「世界には絶対的な正しさはなく、あらゆる価値相互の差異だけが存在するのだと思うが、そのような世界で果たして人はよく生きることができるのだろうか」みたいなことを手紙で書き送ったことがある。若かったのだ。

彼からの返事にはこうあった。「価値相対主義の世界では、ひんやりと冷たい、しかし安定した視点が得られるだろう」と。彼もまた若かったのだ。

客観的な正しさの存在を措定し、それを前提に世界を腑分けして行くのではなく、「ものの見方は人の数だけ存在し、ただその間の相互関係や不断のコミュニケーションを通じてのみ全体としての『とりあえずのだいたいの正しさ』的な『仮定』とか『合意』が成立するのに過ぎない」という考え方は、そのころから今にいたるまで僕の世界認識の根底にあるものだ。

そしてその考え方は、必然的に「客観的な『正しさ』が存在しない以上、『間違った考え方』というものはないのだから、どのような考え方であれ少なくともそれを表明する自由は保障されなければならない」とか「結果の『正しさ』が客観的に示され得ない以上、そこに至る手続の正当性こそが結果の正当性を担保する」とかいった、いわゆる民主的な諸原則を導出する。大きな声であらためていうまでもないが、僕はそうした諸価値を信ずる者である。

しかし、最近考えるのは、そうした価値相対主義的な考え方を大前提にしながらも、そうはいってもやはり人が生きるために揺るがすことのできない普遍的な「正しさ」というものはなにがしかあるのではないか、ということである。

人間の理性的な精神活動の結果としての「価値」とか「思想」、その絶対性や相対性を云々する以前の、およそ人として最初に考えなければならない「誠実さ」とか「率直さ」、インチキやごまかしをおかしいと思う「公正さ」や、小さいもの、弱いものに対する「慈しみ」など、ある種の(あんまりこの言葉は使いたくないが)倫理観のようなものは、ア・プリオリに要求されなければならないのではないかということだ。

僕たちはネット空間で匿名性の陰に隠れた議論とも呼べない言葉の殴り合いや袋だたきをいやというほど目にしている。都合の悪いニュースは全部フェイクだという元大統領や、さすがにそれはないやろという大義のない戦争をおっぱじめた大統領もいる。言葉はあまりに軽んじられ、まともであること、まともらしく見えることにすらわずかな敬意も払われない世界に僕たちは生きているかのようだ。

伝染病、戦争、政治家の暗殺、それが2022年だった。そうしたデタラメな世界で、僕たちの「正しさ」が挑戦を受け、少しずつ削られているのだとしたら、そして僕たちが前提としてきた価値相対主義がそれにうまく使われているのだとしたら、僕たちはこの時代における「正しさ」を再定義する必要があるのではないか。

最近ずっと、「正しさ」について考えている。2023年は「正しさ」について考え続けたい。


2023年1月
Silverboy



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