logo P.K.ディック SF長編レビュー

 


Solar Lottery 偶然世界 1955 (ハヤカワ文庫 小尾芙佐・訳)

ディックの処女長編。ストーリー自体は他愛のないもので、読み捨てにされるペーパーバックらしいいかにもSF的な道具立て、筋立てのオプティミスティックな作品に仕上がっている。後年の、物語が果てしなく破綻して行き読者が自分の立っている場所を見失うのが当たり前のディックの世界を先に経験してしまうと、むしろ本作を初めとする初期長編の分かりやすさ、行儀のよさに戸惑ってしまうのではないかと思うくらいだ。

テレパスの親衛隊に守られた世界政府の執政者、冥王星の外側に位置する太陽系の第十惑星「炎の月」への宇宙旅行、月面基地での暗殺者と親衛隊との一騎打ちなど、今となってはあまりにベタ過ぎる設定の典型的なSF活劇には、この作品が書かれた50年代という時代背景を感じない訳には行かないが、翻ればそれは、こうした通俗的なフォーマットの中できちんと物語を構築することのできるディックの確かな基礎筆力の証でもある。

しかし、絶望的な格差で隔てられた階級社会、猥雑で混乱した未来世界というディックの基本的な世界認識は既にここでその萌芽を見せているし、また自在に複数の人間が人格を入れ替わることのできる人工のボディはシミュラクラのプロトタイプだろう。別の生の疑似体験、現実と幻想の混淆というディック終生のテーマをここに読みとることは可能だ。SFが何の留保もなくSFであり得た時代の幸福なデビュー作と言えるだろう。

 
The World Jones Made ジョーンズの世界 1956 (創元SF文庫 白石朗・訳)

第二長編。ここでも、1年先までを見通せる能力を武器に権力者に成り上がるジョーンズ、銀河系外から飛来する謎の生物、核戦争の残留放射能で頻発する奇形生物、金星の環境に適応するよう人為的に作り出された変異人類など、まさにSFと言う他ないアイテムがこれでもかというほど繰り出され、めくるめく展開のうちにジョーンズは失脚して死を迎える。主人公であるカシックは金星へ脱出して新しい生活を始めることになる。

端的に言って小説としての構成はあまり高く買えない。ジョーンズの予知能力を巡るドラマと、人為的に変異させられた新人類が金星で新しいコロニーを作り上げるストーリーとの関連づけが不十分で、これらが並行して一つの物語を作り上げて行くことの必然性が描き切れていない。「偶然世界」での、ストーリーラインと「炎の月」のエピソードの関係の曖昧さにも通ずるが、このカットバック手法が効果を挙げているとは言い難い。

それでもこの作品に読むべき点があるとすれば、ジョーンズが1年後の未来を見通せるがゆえに、自分の死を1年前に疑似体験してしまうくだりの真に迫った喚起力や、カシックがジョーンズを殺してしまう偶然までもがジョーンズに予知された未来だったというパラドックスであろう。こうしたシーンに見られる現実の相対性の看破こそこの作品の核心であり、外星系からの飛来生物や金星人を持ち出す必要はなかったのだろうが。

 
The Man Who Japed いたずらの問題 1956 (創元SF文庫 大森望・訳)

第三長編。道徳再生運動(モレク)という名の社会運動に支配される未来社会。反モレク的な原動、行動は住民集会で吊し上げられ、厳しく抑圧される。そこはオーウェルの「1984」にも通ずるアンチ・ユートピアであり、その意味ではこの作品も初期作品らしくSF的フォーマットに則っているが、ここではストーリーの運びはよりストレートになり、テーマはより絞りこまれて明確になっている。小説としての完成度は上がっている。

もちろん、監視社会から放逐された主人公アレンが体制に立ち向かうことを示唆するポジティブなラスト・シーンなど、大衆通俗小説として書かれたことによる殊更の分かりやすさはあるものの、それも本作の興趣を損なうまでには至っていない。むしろ、近未来の相互監視社会が広告代理店によって支えられている点や、それを主人公がユーモアの力で克服しようとする点などに、ディックの先見性、独自性を見る思いがするのである。

モレク社会からの落伍者がメンタル・ヘルス・リゾートに送られるという設定も面白い。分析医に騙され、ベガ星系第四惑星に飛ばされたアレンが自分の夢の中に迷いこんだかのような錯覚を起こすくだりは、現実だと信じていたものが次々に剥がれ落ちて行くというディック的オブセッションのひとつの原型だろう。一連の初期ペーパーバック作品の中では非常によく整理され、論理も一貫しているまともなSF小説だと言える。

 
Eye In The Sky 宇宙の眼 1957 (ハヤカワ文庫 中田耕治・訳)

第四長編。陽子加速器の事故によって重傷を負った8人の見学客が、救出されるまでのわずかな時間に互いの意識の中の世界を順番に体験するというインナー・ワールド的な構想で書かれており、その意味ではJ.G.バラードの「夢幻会社」あたりをちょっと思い起こさせたりもする。テーマからの逸脱はさらに少なくなり、陳腐な道具立てに頼らなくても物語が自らドライブして行くだけの力を備えた秀作であることは間違いない。

興味深いのはディックが描くそれぞれの登場人物の頭の中の世界である。最初に現れるシルヴェスターの頭の中の世界は、歪んだ教義を持つ宗教に支配されており神の徴が具現化する場所として描かれている。主人公のハミルトンはここで昇天し巨大な眼としての神に直面することとなるが、この部分は後年ディックが取り憑かれることになる神学論的なオブセッションを示唆していると言っていい。バカバカしいが凄みのあるシーンだ。

その他にも不快なカテゴリが次々と「廃止」されて行く世界、歪んだ視線と憎悪で充たされた世界、そして労働者が資本家と鋭く対立する共産党的世界など、ここで描かれる世界はどれも極端で滑稽だがどこか不気味な既視感、現実感があり、その辺りにディックの文学的素養が表れていると言うべきだろう。本作も妙に明るいラスト・シーンが用意されているが、マッカーシズムへの強烈な嫌悪感も含め、ディックの気骨が窺える作品。

 
The Cosmic Puppets 宇宙の操り人形 1957 (ちくま文庫 仁賀克雄・訳)

発表時期からすれば5作目の長編であるが、実際には「偶然世界」の次に完成していたと言われる。導入は素晴らしい。旅行の途中で幼少の頃を過ごした故郷の街ミルゲイトに帰ってきた主人公バートン。しかしそこは彼の知っているミルゲイトではなかった。住んでいる人々も、街並みも、通りの名前も記憶とは異なっている。記録を調べると自分は9歳の時に死んだことになっていた。ここはいったいどこなのか。自分はだれなのか。

現実の現実らしさ、確からしさが足許からボロボロと崩れて行く、ディック特有のあの悪夢のような喪失感、何を信じていいのか分からなくなるような頼りなさがひしひしと伝わってくる。しかしよくないのはその後の展開だ。この異変が、光の神オーマズードと暗黒の神アーリマンの対立によるものだという構図が明らかになると、物語は一気に凡庸になってしまう。大げさで大雑把な書きぶりは導入の素晴らしさと対照的である。

初期作品として若いディックの筆運びに未成熟な点があるのはある程度致し方ないことだとも思うが、同時期の「偶然世界」、「ジョーンズの世界」その他の作品と比べても本作が完成度において大きく見劣りすることは否めない。訳者である仁賀克雄によればもともと中編に書き足して長編化したものらしいが、書き足したと思われる部分がいかにも取ってつけたようで作品全体の興趣を削ぐ結果となったのは残念だ。

 
Time Out Of Joint 時は乱れて 1959 (ハヤカワ文庫 山田和子・訳)

6作目の長編。自分の属している世界が少しずつ破綻して行く不安、焦燥、恐怖を直接的に描き出している。何の変哲もない1959年(本作の発表年)の日常生活の描写から始まる本作は、しかしそれが実は本当の現実でなかったという結末に向けて少しずつ変容して行く。日常の些細な断片に兆す破綻のサイン。自分がおかしいのか、自分を取りまく世界がおかしいのか、葛藤の中で主人公のレイグルは住み慣れた街からの脱出を試みる。

惜しむらくは、それが核心に迫るに連れて次第に話が誇大妄想的に大きくなり、月植民の地球からの独立戦争へと回収されてしまう点(レイグルは最後は地球政府を裏切って月へ旅立つことになる)で、この飛躍は前作「宇宙の操り人形」を少し思い起こさせる。しかし、前半部分のレイグルの日常が、その義兄であるヴィクの視点も交えて、もどかしいくらいに丁寧に描きこまれているせいか、物語全体の読後感に充足感はある。

逃げ出そうとしても逃げられない「オールド・タウン」に捕らわれるという設定はテレビ・シリーズ「プリズナーNo.6」にも似ているが、ここではレイグルがそのような偽りの現実に放りこまれた事情も、やや説明的ではあるにせよそれなりに理路整然と解き明かされる。ディック特有の「現実とは何か」というオブセッションが明確に現れた初期の力作の一つであり、長く絶版となったままなのはいかにも惜しいという外ない。

本書はサンリオSF文庫から刊行されたもののその後同文庫が絶版となったため長らく公刊のない状態だったが、2014年1月、ハヤカワ文庫から改訳版として新たに刊行されている。このレビューは原書を読んで書いたものだが、改めて訳書を読んでみても内容はそれなりに把握できていたようで安心した。今、考えれば図書館で取り寄せて読めばよかったと思っている。
 
Dr. Futurity 未来医師 1960 (創元SF文庫 佐藤龍雄・訳)

これまで一度も邦訳が刊行されていない数少ない作品の一つである。端的に言ってしまえばタイム・トラベルもの。2012年のアメリカに住む医師ジム・パーソンズは交通事故を起こした拍子に未来の世界に紛れ込んでしまう。そこでは人の誕生が人為的にコントロールされ、人口が常に一定に保たれる一方、医療行為は罪悪であり、パーソンズは瀕死の少女に応急処置を施しその命を救った罪で当局に連行されてしまうのであった。

ここまではそれなりに緊張感のある展開なのだが、パーソンズが刑罰として監獄植民星である火星に送られようとする辺りから物語は大雑把になり、パーソンズは何度もタイム・トラベルを繰り返すことになる。読んでる方も何が何だか分からなくなるくらいタイム・パラドックスがふんだんに盛りこまれ、なぜか16世紀のイギリス海軍提督であるフランシス・ドレイクを暗殺する企てにパーソンズも巻き込まれて行く。

邦訳が後回しにされるのも無理はないと思ってしまうドタバタ感ととってつけたようなストーリー展開は初期のB級SF路線に特徴的なもの。お世辞にも洗練されているとは言い難い作品だが、幾重にも錯綜するタイム・パラドックスはドラえもんで育った僕たちにはむしろなじみ深いものかも。テリー・ギリアム監督の映画「12モンキーズ」を彷彿させる歴史と自分の行為との干渉も描かれ、そろそろ邦訳も出ていい頃だろう。

本書は長く未訳であったが、2010年5月にようやく創元SF文庫から邦訳が出版された。上記のレビューは、まだ邦訳がない頃、原書を読んで書いたものだったが、邦訳を読んでも作品の印象は変わらなかった。大意はちゃんとつかめていたようだ。ドラえもんに「桃太郎はのび太だった」みたいな話があるが、そんな感じの時間旅行譚だ。あるいは藤子不二雄もディックを読んでいたのだろうか。考証はデタラメだがこれはこれで悪くはない。
 
Vulcan's Hammer ヴァルカンの鉄槌 1960 (創元SF文庫 佐藤龍雄・訳)

これも本邦未訳作品。第三次世界大戦後の世界では、国連に代わり「ユニティ」と呼ばれる世界政府が世界中を統治しているが、その政策決定は「バルカン3」というスーパー・コンピュータに委ねられている。一方、バルカン3の破壊、世界政府の転覆を標榜するヒーラーズと呼ばれる一団からなる「ムーヴメント」が台頭し始めている。物語はユニティの北米地区責任者であるウィリアム・バリスを中心に展開して行く。

内容的には明快な近未来もの、それもコンピュータが統治するアンチ・ユートピアものの系譜に連なる純SF作品だが、面白いのはムーヴメントが実はバルカン3の先行機であるバルカン2によって組織されていたというところ。バルカン2はバルカン3が自己保存本能から自分に敵対する勢力に対抗するため自ら武器を製造し容赦のない殲滅戦を展開すると予想し、バルカン3にムーヴメントの情報を与えないようユニティに助言する。

2台のスーパー・コンピュータによる闘争とそれに巻き込まれる人間という筋立てには滑稽な反面ディックならではの着想の面白さ、空恐ろしさがある。バリスが本来対立していたムーヴメントのリーダーであるフィールドと協力してバルカン3を破壊する大団円はご愛嬌だし、終盤ストーリーを急ぐのは枚数の関係でやむを得ないが、未訳にしておくのはもったいない。管理社会で「ロリータ」が禁書になっている設定はステキ。

この作品はレビュー時には未訳であったが、2013年3月、荒川水路さんという人が翻訳、『ヴァルカンズ・ハマー』のタイトルでタイロス出版から出版した。西荻窪の盛林堂という古書店で扱っている他、Kindle版でも読むことができるようだ。荒川さんのサイトではディック他の作品を紹介している。(2013.5)

商業出版では、2015年5月、創元SF文庫から佐藤龍雄の翻訳でようやく出版されるに至った。これで、ディックのSF長編はすべて商業出版されたことになる。(2015.10)
 
The Man In The High Castle 高い城の男 1962 (ハヤカワ文庫 浅倉久志・訳)

第二次世界大戦に枢軸国が勝った世界を描くパラレル・ワールドもの。テーマ自体はそれほど目新しいものではないが、丁寧な筆致と抑制されたストーリー展開が、それまでの書き捨て型ペーパーバックSFとは違う新たな高みへディック・ワールドを引き上げた出世作。実際にも本作はペーパーバックではなくハードカバーの単行本として出版されたらしい。一般の評価も高く、二大SF文学賞であるヒューゴー賞を受賞している。

物語の中では連合国が第二次世界大戦に勝ったという「仮定」で描かれた小説がベストセラーになっている。その作者が「高い城」に住む男であり、彼はただ易に導かれて真実を書いたのみだと示唆される。また、物語の終盤、主人公の一人である田上がアメリカ人の自主と誇りの象徴として描かれるアクセサリーを媒介として、連合国が勝った「現実」の世界を幻視するくだりもあり、虚実の薄い皮膜というテーマはここにも現れる。

手ごたえ、読みごたえのある重厚な作品で、かつ、後年の作品に顕著な破綻も見られず、小説としての面白みも十分備えている。もっとも我々としてはここで描かれる日本人の姿にいささか違和感がある。何かにつけ登場人物が多用する「易経」もいかにもアメリカ人の東洋趣味。そうした細部がリアリティの点で物語に没入することを邪魔するのはもったいないが、虚実の狭間で真実を探し続ける登場人物はどれも十分魅力的だ。

 
The Game-Players Of Titan タイタンのゲーム・プレーヤー 1963 (創元推理文庫 大森望・訳)

長編第10作。第三次世界大戦と星間戦争を経て、ヴァグと呼ばれるタイタン人に支配され著しく人口の減少した未来の地球が舞台だ。人生ゲームに似たゲームで実際の土地が取引され、人々は戦争中に使われた特殊兵器のせいでゼロ近くなった出生率を埋め合わせるため、少しでも有効なペアリングを行おうと頻繁にパートナーを取り替える。テレパス、プレコグ、念動力者といった超能力者がストーリーに重要な役割を果たす。

前作「高い城の男」がヒューゴー賞を受賞し、高い評価を受けたにもかかわらず、この作品は初期のドタバタB級SFのテイストが満載である。この時期のディックはとにかくすごい勢いで長編を書き飛ばしており、それには生活上の理由もあったと言われるが、とにかくこちらもそれくらいの気持ちでガンガン読み飛ばして行くスピード感に合った作品というべきか、細かい矛盾や破綻にはこだわらない鷹揚さで楽しみたい作品だ。

主人公のピート・ガーデンは自殺願望のある薬物依存者で、ある時周囲の人間が実はすべて擬人体の姿を借りたヴァグだと看破する。それが真実なのか、それともガーデンの幻覚なのか。何度も敵と味方が入れ替わり、ストーリーも二転三転する。いったいどっちが本当なんだ、と頭がグルグルしてきたらそれはディック中毒の初期症状かもしれない。この酩酊感がディックを読む醍醐味。うちのヤカンにもラシュモア効果が欲しい。

 
The Penultimate Truth 最後から二番目の真実 1964 (創元SF文庫 佐藤龍雄・訳)

地上では世界を二分した核戦争が戦われており、人々は地下に避難しそこで「要員」と呼ばれる戦闘用のロボットを作り続けている。しかし、実際には戦争は15年前に終結しており、地上政府は権益を独占するために人々を騙し続けていた、というストーリー。物語は地上に這い出したある地下都市のリーダー、ニコルスを軸に、地上政府の補佐官の一人アダムス、地上の私設警察のボスであるフットらの群像劇として進行する。

地上を支配しているのはブロウズというプロパガンダ映画製作者。地下市民向けに架空の施政者ヤンシーをでっち上げ、巧みな情報操作で地下市民を騙すという設定は秀逸。また、本来シミュラクラに過ぎないヤンシーのモデルになったランターノがブロウズを暗殺し、「本物」のヤンシーになり実権を握って地下市民に真実を告げるという筋立てもさすがだが、ランターノの超常的な能力の説明が今ひとつ明快でないのは残念。

政府が国民を地下に閉じこめ、要員製造の過酷なノルマで縛りつけた上、情報操作で重要な真実を隠したまま、一部のエリートで特権を独占しているというのはディックの反体制、反権力的なオブセッションのストレートな表れと見るべきだろう。マッカーシズムの記憶、ベトナム戦争の勃発や、キューバ危機に代表される冷戦下での核戦争への恐怖といったアメリカの近代政治史からかなり直接的な影響を受けた作品と言えよう。

 
Martian Time-Slip 火星のタイム・スリップ 1964 (ハヤカワ文庫 小尾芙佐・訳)

作品を乱発していた1964年発表。この時期の作品はまさに玉石混淆だが、これは確実に「玉」の方だ。自閉症の子供にとっては時間感覚が周囲と異なっているというアイデアを軸に物語は展開する。老いさらばえた自分の姿が見えてしまうために不吉で苦痛に満ちたイメージに自閉する少年の見る世界、それが周囲の人間を蝕む様子、かつて分裂病を患いその再発に脅える主人公ジャック。媒介者としての火星原住民ブリークマンの存在。

舞台は地球からの植民下にある火星であるが、実際にはドラッグの影響下にあり精神にも少なからぬ潜在的な問題を抱えていたはずのディックが見る悪夢、幻覚が大きな役割を果たしたのではないかと思わせる作品だ。人間の皮膚の奥に機械仕掛けが見えたり「黒ずんでぬめぬめ光る骨の袋」に見えたりする現実崩壊の感覚。時間が混乱し話者の視点が不明で不吉なシーンが何度も繰り返される描写はこの作品の白眉と言っていいだろう。

作品としては登場人物が多すぎ切り捨ててもいい伏線もありはするが、人間の心の奥底に潜む不安、目に見えている現実の「現実らしさ」への不信というディック作品の特徴が顕著に表れ、しかもそれがストーリーとしてコンパクトに凝縮された、この時期の傑作の一つであることに間違いはない。「火星」「タイム・スリップ」という道具立てゆえにB級SFとして敬遠されることがあるとしたら本当にもったいない。必読書のひとつ。

 
The Simulacra シミュラクラ 1964 (ハヤカワ文庫 山田和子・訳)

ディックを語るときに書かせないシミュラクラをそのままタイトルにした作品。シミュラクラとは「似姿、影」のこと。または「まがいもの」のこと。ディック作品の文脈では人造人間を指すと思っておけば間違いないが、それは同時にディックの虚実が幾重にも混じり合い、何が真実か分からなくなる現実崩壊の感覚を象徴する重要なファクターでもある。この作品では大統領がシミュラクラであったという設定になっている。

とはいえここではシミュラクラそのものは重要ではない。権力者が実はシミュラクラであったという筋立ては「最後から二番目の真実」と同じだし、そこにファースト・レディでシンの権力者であるニコル・チボドウを登場させた点にはやや新味も感じられるものの、登場人物は多すぎ、ストーリーは致命的に混乱しており、チボドウは実は何十年も前に死亡していて今のチボドウは女優だというに至っては便宜的だと言う外ない。

この小説の読みどころはむしろ念動力でシューマンを演奏するピアニスト、ハエのようにうるさくつきまとうコマーシャル、一種のタイム・マシンであるフォン・レシンガー装置、人の心を動かす火星生物パプーラ、薬品会社の意を受けてすべての精神分析医を非合法化するマクファーソン法といったアイデアの見事さだろう。強迫観念的なまでにアイデアをぶち込んだ本作は、小説としては高く買えないがSFとしては舌を巻く出来だ。

 
Clans Of The Alphane Moon アルファ系衛星の氏族たち 1964 (創元SF文庫 友枝康子・訳)

かつて地球政府が精神疾患者たちを収容していたアルファ系の衛星は、地球とアルファ系の星間戦争後放棄され、精神疾患者達自身による奇妙な自治が成立していた。彼らは疾患ごとに居住区を作って暮らし、各々のグループ(氏族)の代表が評議会を構成している。精神分裂症が統合失調症と言い換えられる今日にあっては、いつまでこの形で出版できるかも危うい設定である。ディックの精神疾患に対する興味と傾倒が窺える。

もう一つ、この作品から強く感じられるのは、ディックの、CIA、FBIといった情報機関、警察といった政府機関へのほとんどオブセッションとさえ言っていいほどの関心である。そこには自分が政府機関によって監視されているのではないかという不安、恐怖があるように思われる。その感覚が、スパイやシミュラクラの登場で情報が錯綜し、だれが何を考えているのか、何が正しいのか分からなくなる現実崩壊の背景になっている。

そういう意味ではディック作品の特徴のひとつをよく表しており、着想自体は相変わらず卓抜だが、ストーリーは混乱しており、作者自身が作中で言及しているとおり「この争いには参加者が多すぎる、そして理屈にあわないことばかりやっている」。もちろん、こうしたバランスの悪さ、大小の破綻はディックの作品にはついてまわるもの。それにも関わらず真に迫ってくるディックの頭の中の世界のリアルさをこそ見るべき作品。

 
The Three Stigmata Of Palmer Eldritch
パーマー・エルドリッチの三つの聖痕
1964 (ハヤカワ文庫 浅倉久志・訳)

地球の人口過剰を解消するため強制的に他の惑星に移住させられた人々は不毛の地で事実上の棄民となり、ドラッグと模型人形セットの力を借りて見る幸せな生活の幻覚を頼りに過ごしている。そこに何年も前に消息を絶った実業家パーマー・エルドリッチが新しいドラッグを携えてプロキシマ星系から帰還した。エルドリッチの提供する新しいドラッグ、だがそれは現実をすら浸食する果てしないフラッシュバック、白日夢の始まりだった。

三つの聖痕とはエルドリッチの義眼、義手、義歯。ドラッグによるトリップにはエルドリッチがまるで神のように偏在しており、そこから覚めたと思った現実にもまたエルドリッチが忍びこんでいるというフラッシュバックの恐怖。夢から覚めたと思ったらまだ夢の中だったという現実崩壊の感覚はいうまでもなくディックの最大の特徴であり武器であるが、どこまでも幻覚が追いかけてくる本作の描写はその中でも特に真に迫っている。

最後には、ある種の宇宙意識がエルドリッチに憑依していることが示唆され、物語はにわかに神学論的な色彩を帯びることになる。神性、善性といったテーマがストーリーの中で無理なく論じられるのは初期の拙い「宇宙の操り人形」でも晩年の観念的な「ヴァリス」でもなし得なかったこと。そしてそこにおいて限りある生としての人間が何を頼りに前を向いて行くのかという問いにディックは答えを出そうとしている。重要な作品。

 
Dr. Bloodmoney, Or How We Got Along After The Bomb
ドクター・ブラッドマネー〜博士の血の贖い
1965 (創元SF文庫 佐藤龍雄・訳)

核戦争を直接描き出した、ディックとしては異色の作品。核戦争が始まった当日の様子を冒頭に置き、主要人物を登場させた後で、その7年後、すっかり産業が衰退し動物たちも放射能の影響で異様な突然変異を遂げた世界が描かれる。舞台設定こそSF的ではあるが、文章は登場人物たちの人間的な葛藤を追う群像劇になっており、虚実の交錯するディック独特のめくるめく展開やSF的アイデアはここでは非常に抑制されている。

核戦争が起こったのは自分のせいだという妄想に取り憑かれた核物理学者のブルートゲルト(ドイツ語で「血のカネ」の意であり本書のタイトルの底意)、サリドマイド障害者で念動力者のホッピー、双生児の姉の体内に寄生し死者の声を聞くビルなど登場人物の造形も特徴的。牧歌的な物々交換社会を背景にしているせいもあってか物語の印象は非常にひそやかかつ静的で、人物描写、心理描写が生き生きと真に迫ってくる。

もっとも、子供の頃から原爆の悲惨さを教育された日本人としては核戦争そのもののリアリティがゼロ(ブルートゲルトは戸外に出て初めて核戦争が勃発したことを知るなどあり得ない設定)。ブルートゲルトの存在が物語の中で果たす役割もはっきりせず、純粋な小説としては中途半端で、テーマを消化しきれていない感は否めない。キューバ危機など核戦争の観念的な影に脅えた時代背景に影響された「核文学」の系譜に連なる作品。

 
Now Wait For Last Year 去年を待ちながら 1965 (ハヤカワ文庫 山形浩生・訳)

ある意味、典型的なフィリップ・K・ディックの作品。2055年、地球は人類の始祖であるリリスター星人と同盟を結んだばっかりに、リーグ星人と勝ち目のない星間戦争を戦っている。絶望的な状況にある地球でひそかに開発された新種のドラッグJJ180。それは習慣性をもち、人の身体を致命的に蝕むと同時に、一時的に時間軸を移動し、過去か未来に移動する能力を与える禁断のドラッグであったが、主人公はそれを服用してしまう。

ここでは可能性の数だけ並行した未来が存在することが示唆される。主人公であり国連事務総長の主治医であるエリック・スイートセントがJJ180の力を借りて幾度も未来と現在を行ったり来たりする度にストーリーは修復不可能なまでに混乱し、読者の頭はもはやいつが「現在」かも分からないほど混沌としてくる。細かい設定や描写を仔細に検討すれば、この作品の設定が破綻していることは容易に説明できるだろう。

だが、それこそがディック作品の真骨頂と言ってしまうのは身びいきが過ぎるだろうか。タイム・パラドックスとか真面目に論じるのがバカらしくなるくらい、「細かいことは置いといて」的にガンガン進んでしまうストーリー。時間軸が交錯して頭グルグルになりながらも、ページを遡って前後関係を確認するよりはそのまま勢いで読み進んでしまうのがたぶん正しい読み方。だって、時間が混乱するというのはそういうことだろう。

 
The Crack In Space 空間亀裂 1966 (創元SF文庫 佐藤龍雄・訳)

数少ない未訳作品のひとつ。人口過剰に悩む地球では有色人種を中心に1億人近い人間が冷凍睡眠していた。そんなとき、米国初の黒人大統領を目指して選挙戦を戦っているジム・ブリスキンは極秘情報を手に入れる。平行宇宙へとつながる時空の裂け目が見つかったというのだ。その先にはもう一つの地球があった。ここに冷凍睡眠中の人々を入植させれば…。だが、平行宇宙の地球では、北京原人の末裔が独自の文化を創り上げていた。

SF的には面白い発想だが、例によってむやみに登場人物は多く、ストーリーには都合のよすぎる展開や辻褄合わせ、合わせきれない辻褄などが満載で、初期から中期のディックの原稿料稼ぎのための「書き飛ばし型」ペーパーバックSFのひとつというのが妥当な評価だろうと思う。だが、皮肉な言い方をすればだからこそディックのストレートな嗜好や資質が表れているとも考えられる。そういう意味では素直に楽しめるSF作品ではある。

無人だと思って入植を始めたら実は北京原人の末裔が先住していて危うく次元間戦争になりかけるという無茶な設定。本作は、難しいことは考えないで「そんな無茶苦茶な」と大笑いしながら読み進め、読み終わったらさっさと頭の中から消え去って構わない類の小説であり、そしてそのような類の小説としては間違いなく一級品である。まあ、こういう作品もあってこそのディックだということで、そろそろ邦訳が出るのを待ちたい。

レビュー後の2013年2月にようやく邦訳が出版された。レビュー時の原書の印象ともとくに齟齬はなく、きちんと全体が理解できていたようで胸をなでおろした。着想は面白いが登場人物がムダに多い上に、北京原人が出てきてからストーリーの混迷に拍車がかかり、とてもじゃないが文学的に価値が高いとかそういう話ではない。だが、単純に面白がって読み飛ばす分にはバカらしくて楽しい。書店に平積みになっているだけで笑いを誘う。
 
The Unteleported Man テレポートされざる者 1966(サンリオSF文庫 鈴木聡・訳)

この作品には3つの異本が存在する。このレビューはサンリオ版を底本としているが、1966年に発表されたのはサンリオ版では148頁までにあたる部分のみで、それ以降の部分は63年の雑誌掲載時には存在せず、66年の単行本発表時に加筆されたが、出版社の意向に沿わず没になったのだという。確かに起承転結の分かりやすいにオリジナル部分に比べ、後半は虚実入り混じるディック・ワールドで、両者の間には大きなギャップがある。

人口過剰の地球から24光年の彼方にある植民星への移住、一方通行でだれも帰って来られないテレポート、王道楽土として喧伝される植民星の真の姿を確かめようと18年の宇宙旅行を決心する主人公、そしてそこにあったのは、強制収容所と化した植民星を支配する軍事独裁政権であり、テレポートが片道しか機能しないというのは偽りだった…。オリジナル版の筋書きは、B級臭くはあるものの、それだけで十分完結したSF作品である。

だが、ディックはむしろ未発表となった後半部分に執着したという。植民星が実際には美しい楽土となっている可能性も示唆しながら、平行するいくつもの現実の存在、読むたびに内容を変える植民星の歴史書の自己言及性、タイム・ワープによる現実の「生き直し」にまで踏み込み、自らプロットを破壊して行くディックの破綻への傾倒が顕著に表れた後半部分は、本編とは別の作者による続編として読むべきかもしれない。

Lies Inc. ライズ民間警察機構 (創元SF文庫 森下弓子・訳)

「テレポートされざる者」の異本。異本が生じた経緯、サンリオ版「テレポート〜」との異同は「ライズ〜」巻末の解説に詳しいが、「ライズ〜」の方はつじつまの合わない部分、話の飛躍する部分が多く読み通すのに苦労する。「テレポートされざる者・完全版」と銘打たれており、文章の大部分は共通するものの、大胆な前後関係の入れ替えでストーリー展開は大きく異なっており、同じ作品の「完全版」とは言い難い。

ロック的に言うならむしろ「リミックス」の感覚に近く、いきなり「ライズ〜」を読み始めると混乱する可能性も高い。現在書店で比較的容易に入手できるのは「ライズ〜」の方だが、手間でもまず「テレポート〜」を図書館などで探して読み、その上で「ライズ〜」を読むことを敢えてお勧めする。尚、「テレポート〜」にある3箇所の欠落部分の原稿は後に発見され、「ライズ〜」巻末に別途訳出されている。

もっとも、こうした異本の存在、継ぎ足され、書き直されて果てしなく転変するテキストという現象は、本書後半に登場し物語の中で重要な役割を果たすブラッド博士の歴史書を思い起こさせる。偶然とはいえよりによってこの作品が自らこのような数奇な運命をたどったのは興味深い。本編ではこのテキストは生物であり、読み手の心によって別々の内容を写す兵器だというオチだったが、もしかしたら本書もそうかもしれないぞ。

 
The Ganymede Takeover ガニメデ支配 1967 (創元SF文庫 佐藤龍雄・訳)

レイ・ネルスンとの共作。ガニメデとの星間戦争に負け、芋虫に似たガニメデ人の占領下にある21世紀の地球の物語。アメリカのテネシー郡ではパーシィXというリーダーが率いる抵抗組織・黒人解放戦線がレジスタンスを続けている。占領軍の協力者であるテレビ・パーソナリティ、ジョーン氷芦は、パーシィXに接触するためテネシー郡の山中にある解放戦線の根拠地に乗りこんで行くが、パーシィXともども占領軍に拘束されてしまう。

そこからストーリーは天才精神科医バルカーニが開発した、知的生命体の精神活動に作用する最終兵器を巡るドタバタに発展して行く。荒唐無稽ではあるが、小説として先を読ませるという意味での完成度は高く、最後に近づくに連れてどんどん破綻して行くディックの作風を考えれば、ネルスンの果たした役割は大きかったということか。共作かつ未訳ということで敬遠していたが、2014年に邦訳が出て読んでみたら意外に悪くなかった。

特にジョーン氷芦が血液と同温の水槽にすっぽり浸けられ解脱に至るシーンの丁寧な書き込みはそれだけで読む価値のあるもの。幻覚による戦争という着想はいかにもドラッグにやられたディックらしいし、ラストにご都合主義的なものを感じるのは仕方ない部分もあるが、この前後のいくつかのやっつけ作に比べれば第三者の手が入った分まとまりが出て読ませる。パーシィXはマルコムXからの連想か。B級SFだが読んで損のない作品である。

 
The Zap Gun ザップ・ガン 1967 (ハヤカワ文庫 大森望・訳)

東西の冷戦は継続しているものの両者の間では根本的な対立はなく、ただ庶民を統制するために互いを敵に見立てて実際には役にも立たない兵器の開発に表向きしのぎを削っている世界。主人公のラーズ・パウダードライはトランス状態で兵器のアイデアをひねり出す一種の霊媒である。だがそこに本物のエイリアンが攻めてきたからさあ大変、ラーズは東側のデザイナー、リロと手を組んで本物の兵器を開発する羽目になる…。

良識ある読者であればこの粗筋を読んだだけでアホらしくなってしまったとしても無理はない。SFとしてさえB級もいいところだ。兵器ファッション・デザイナーという設定、ラーズの開発する冗談みたいな武器の数々、攻めてくるエイリアンは甲殻類だし、彼らを撃退するためにラーズが作り出す究極兵器も正直「何じゃそりゃ」だ。伏線だって完結しない。ていうかそもそも「ザップ・ガン」というタイトルが意味不明なのだ。

だが、だからといってこの作品が読むに値しないジャンクかというとまったくそんなことはない。いや、ジャンクかもしれないが面白い。究極兵器だってそれがキチン質生物を撃退するために効くかどうかはともかく、迷路ゲームの中にいる小動物と自分の意識を同化させるというアイデアはサイバーパンクだ。ドラッグによるトリップ、国家警察やエリート支配への強迫観念、ディックの手癖がストレートに出た第一級のB級作品。

 
Counter-Clock World 逆まわりの世界 1967 (ハヤカワ文庫 小尾芙佐・訳)

設定は例によってムチャクチャである。「ホバート位相」なる現象によって時間が逆行し、人は墓から甦って子供に戻って行くのである。煙草は部屋の煙を集めて徐々に長くなり、食事は口から食べ物を吐き戻す営みになっている。だが、だからといって因果律が何もかも逆転しているかというとそういう訳でもなく、レーザーは銃から発射されて目標を倒すし、建物は爆破されて灰燼に帰する。そういう世界の物語である。

だが、この作品をそうしたアイデア一発のスラップスティックとして読むとその面白さは半減してしまうだろう。まず指摘しなければならないのは、ここにはディックの神学、生と死の問題に対する関心がかなり露骨に表れているということだ。存在とは、生きるとは、死ぬとは、そして神とは。死んだ人間が生き返る世界を描くことでディックはその問題に正面から向かい合うことになった。いや、あるいはその逆かもしれない。

ディックは神性について書くために死者がよみがえる世界を舞台にしたのだろう。主人公が新興宗教の教祖を墓から掘り出すのは決して偶然ではない。そして主人公もまた一度死んだ「老生者」なのだ。彼らがそこで見たものこそこの作品のテーマである。だが、この物語のもう一つの核心は、そのような神性、絶対的な運命を前提としながら、そこにおいて人間に許された選択の問題に他ならない。それがこの作品の救いなのだ。

 
Do Androids Dream Of Electric Sheep?
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
1968 (ハヤカワ文庫 浅倉久志・訳)

言わずと知れた「ブレードランナー」の原作であり、おそらくはディックの作品の中でも最も広く読まれているもののひとつだろう。そして、本作はそれに十分値する作品だと言っていい。登場人物は絞り込まれ、ストーリーはアンドロイドを追うリックと、彼に追われるアンドロイドをかくまうイジドアの視点を往復しながら進展する。物語は高いテンションを孕みながら一気に展開し、ディック作品にありがちな破綻もない。

偽の記憶を移植されたため自分がアンドロイドであることすら知らないアンドロイドの存在。そして自分がそのようなアンドロイドではないかと指摘されることによって突然相対化する現実感。確かな記憶、確かなアイデンティティなどあり得ないのだというディックの最も基本的な世界観をベースにしながら、では、人間が人間であるとはどういうことか、共感とは、情緒とは、感情移入とは何かということをこの作品は問いかける。

感情移入の能力こそ人間とアンドロイドを区別する最大のファクター。ラストでは、それゆえリックは人間そっくりのアンドロイドを次々に殺すことでアイデンティティの危機に陥りながらも、そこから何とか生還を遂げるように読める。ここでもやはり、限定された選択肢の中での最良の選択とは何かというテーマが立ち現れるのである。映画を見てから読んでも、読んでから映画を見ても、新たな発見と感動のある代表作である。

 
GALACTIC POT-HEALER 銀河の壺なおし 1969 (ハヤカワ文庫 大森望・訳)

正直よく訳の分からない作品である。主人公のジョーは壊れた陶器の壺を修理する職人。しかし修理に持ち込まれる壺はほとんどなく、退役軍人年金で食いつないでいる。そこにシリウス星系から壺直しの依頼が舞い込む。海底に沈んだ聖堂を引き揚げるプロジェクトに参加し、壊れた壺を修理して欲しいというのだ。グリマングと呼ばれる巨大な生命体が君臨するその星へとジョーは旅立った。ジョーがそこで遭遇したのは…。

なぜ壺なのか。なぜ聖堂なのか。必然性のまったくない唐突な筋運びに頭がクラクラしている間に物語は展開して行く。いつの間にか話はグリマングとブラック・グリマングの戦いになっている。このあまりに飛躍した無茶な小説の作りは初期の「宇宙の操り人形」と何となく似ている。物語が結局は正邪の対決に帰するところなんかそっくり。そこここに宗教的、神学的な言説の断片が散りばめられているところも似ている。

結局壺は壺でなく、聖堂は聖堂でなく、すべてを予言する本は間違いを犯す。僕のようにディックの神学かぶれにはつきあいきれないと感じている人間には、例えば全能にして偏在する存在(それって神?)でありながら妙にチャーミングなグリマングの物言いとかの方が面白い作品で、そんなアホなと笑いながら読んであげるのが正しいのではないか。難しい顔で分かったようなことを言ってるときっとディックに笑われる。

 
UBIK ユービック 1969 (ハヤカワ文庫 浅倉久志・訳)

僕としては最初か二番めかに読んだディックの作品。あれはおそらく大学生の頃だったと思う。超能力者と対抗する「不活性者」たち。彼らが月で敵の計略にかかり爆発に遭遇するところから物語は一気に核心に入る。身の回りのものがとどめようもなく古びて行くのだ。その退行現象を押しとどめるのは「ユービック」という薬用スプレーだ。この現象の背後には何があるのか。不活性者を率いる技師ジョーを中心に物語は展開する。

実はジョーも不活性者たちも月での爆発で死んでおり、彼らが体験しているのは死後も残される薄明のような意識状態、「半生」状態の中で見る幻であることが示唆される。この辺の設定は何となく「虚空の眼」を思い出させるが、そこで彼らが見るもの、体験する世界や、そこにおいて右往左往し退行のなぞを知ろうとするジョーの「あがき」の迫真性は比べものにならない。この10年の間にディックの技量は格段に向上している。

だが、何より秀逸なのはやはりこの物語の終盤、時間が退行する謎が明かされるところである。もちろんディックの作品だから破綻はあるし強引な辻褄合わせもある。だが、伏線を回収しながら強引に時間退行の説明をつける展開はその破綻を凌駕して無理矢理読者を納得させる迫力に富んでいる。そしてさらにはそれすら破綻するラスト1ページ。ディック自身が現実の現実性を信じていないからこそ書ける破綻だ。これは名作。

 
A Maze Of Death 死の迷路 1970 (ハヤカワ文庫 山形浩生・訳)

デルマク・Oという未知の惑星に集められた14人の男女。そこに集められた理由も目的も知らされぬまま、彼らは一人また一人と死んで行く。まるでクリスティの「そして誰もいなくなった」である。だが、もちろんこれはミステリではない。最後に謎は明かされるが、むしろそこに至るまでの何じゃこりゃ的な理不尽さを楽しむべき作品だろう。まあ、謎解きも楽しめるしラストもそれはそれで面白いからいいのだが。

巻末の解説で山形浩生が述べているとおり、ここではディックの神学観がかなり明快な形で示されている。神が実在すると説く「スペクトフスキーの書」をキーに、仲裁神、導製神、地を歩む者、そして形相破壊者という四つの超越者を措定するインスタント神学は、ディックが所謂「神秘体験」を経て僕たちには錯乱としか見えないホンモノの神学にイカれて行くプロセスの重要な一里塚。ナゾの建物の看板がステキだ。

それにしてもディックらしい不気味なテイストの不思議世界をテーマにしながら、本作は破綻も少なくストーリーとしては結構かっちりまとまっている。まあ、夢オチなんだから破綻が最終的に無理矢理回収されるのもある意味当たり前かもしれないが。絶対的な理不尽、出口のない絶望、その中であがく人間。ディック得意の設定だが無茶な状況の中でこそ光るドラマは相変わらず不気味にリアル。山形の訳もいい。

 
Our Friends From Frolix 8 フロリクス8から来た友人 1970 (創元SF文庫 大森望・訳)

地球は巨大な脳容量と超越的な知能を持つ「新人」と、テレパスやプレコグといった「異人」によって統治され、そのいずれでもない60億人の「旧人」は彼らの圧政に喘いでいた。そこへ、かつて太陽系外へ助けを求めて旅立った旧人の希望の星トース・プロヴォーニがフロリクス星系人を引き連れて帰ってきた。果たして彼は異星人の手を借りて旧人を解放できるのか、そしてフロリクス星系人の真の狙いは何なのか。

初期の売り飛ばし型B級SF作品群を彷彿させる作品で、現実の現実性を疑いたくなるような頭グルグル系のディック・ワールドとは無縁のSF活劇。設定はSFとしてノーマルというかオーソドックスだし、ストーリーも首尾一貫しており普通のSF小説として読める。とはいえ、異星人を登場させたもののその書き込みが中途半端だったり、プロヴォーニの帰還により地球がどうなるのかの帰趨が尻切れだったりする感は否めない。

破綻が少ない分面白みもそこそこの佳作。主人公であるニック・アップルトンの人物造形が曖昧で彼の行動の源泉が不明であるのみならず彼がなぜ「旧人の代表」になり得てしまうのかも説明がない。もっとも、タイヤの溝彫り職人という職業は秀逸でこの辺にディックのアイデア・マンとしての実力を見る思いはするし、新人が異星人により脳を破壊され子供に退行してしまうラストに奇妙な安堵感はあるのだが。

 
We Can Build You あなたをつくります 1972 (創元SF文庫 佐藤龍雄・訳)

ルイスの勤務するマーサ商会では主力商品である電子オルガンが競合他社の製作する情調オルガンに押され売れなくなってしまったことから、新たに人間そっくりのロボット「シミュラクラ」を製作することにした。彼らが製作したのは南北戦争の英雄スタントン陸軍長官やリンカーン大統領のシミュラクラだった。彼らを利用しようとする富豪バローズも絡み、主人公ルイスは自社の権益を守るべく右往左往することになる。

だがこの作品で最も重要なのは主人公が入れあげる黒髪の少女プリスの描写だろう。魅力的でありながらサディスティックで精神を病んでいるプリスはおそらくディック自身のアニマでもあるはず。プリスのせいでストーリーは混乱し、ルイスの心はは千々に引き裂かれ、最後は精神を病んで病院に収容されてしまう。ルイスが統合失調を発病する過程やその治療の過程の描写が妙に具体的で説得力があるのが怖いところだ。

内面の描写にかなりの重点を置いた異色の作品で、SFと主流小説をつなぐ架け橋だとディックが言ったというのも理解はできる。終盤にはシミュラクラを巡るメイン・ストーリーは放棄され、ルイスの入院と治療の経緯が延々と描かれており、小説的バランスとしてはムチャクチャ。原型は既に1962年に書かれていたとされるが、おそらくは終盤を後年付け加えたのではないか。ディックの狂気への興味と傾倒が表れた作品。

 
Flow My Tears, The Policeman Said 流れよわが涙、と警官は言った 1974 (ハヤカワ文庫 友枝康子・訳)

ある朝目覚めたら見知らぬ小汚いホテルの一室にいて、自分が自分である痕跡が何もなくなっている。知り合いはだれも自分を知らないと言う。身分証明書の類も全部どこかに行ってしまっている。このままどこかで検問に引っかかれば強制収容所に送られる。悪夢である。SFとしてはこれ以上ないくらいの導入だ。いったい何が起こったのか。ここはいったいどこで自分はいったいだれなのだ。オレの記憶はどこから来たんだ。

だがこれは主人公タヴァナーの自己喪失の物語ではない。そこで語られる核心はタヴァナーを追う警官バックマンが双子の妹で妻でもあるアリスを失ったことの果てしない悔恨、慚愧である。自分にとっては絶対的な悲劇も世界にとってはありふれたできごとに過ぎないという自分と世界との乖離。愛する者との別れ、僕たちはそれをただの失恋ですら疑似体験することができる。ここでディックが言いたいのはその体験なのだ。

そのように自分と世界との乖離を経験する一瞬、僕たちは個人的な「死」を見る。ここでは読者がタヴァナーの視点からバックマンの視点に移行することに無理があり、バックマンの流す涙を僕たちが十分に理解するには遠い部分もあるが、「涙を流す」行為がこの物語の中心的なモメントであることは十分理解できる。タヴァナーの自己喪失にはディックらしい説明も用意されているが、これは実は極めて私的な物語だと思う。

 
Confessions Of A Crap Artist ジャック・イジドアの告白 1975 (ハヤカワ文庫 阿部重夫・訳)

本作はSFではない「主流小説」であり、『戦争が終り、世界の終りが始まった』の書名で晶文社から刊行されていた作品。SFではないのでこのレビューの対象外としていたが、2017年に新訳でハヤカワ文庫から刊行されたのを機に読んでみた。書かれたのは1959年。『時は乱れて』とか『未来医師』とか『ヴァルカンの鉄槌』などが刊行されていた頃であり、もしかしたら本作を書くために読み捨て系のSFを乱造していたのかもと思わせる力作。

物語は何人かの登場人物の視点を往復しながら進展する。タイトルに出てくるジャック・イジドアは本作の狂言回し的存在であり、主人公は彼の妹であるフェイと言っていい。奔放で常に周囲を振り回す彼女が、夫が心臓発作で入院している間にネイサンという若い男と懇ろになって家庭が破綻するのがメインのストーリー・ラインであり、ジャックが、世界の終わりの到来を信じる地元の終末信仰グループに感化されて行くエピソードが絡む。

全体としては登場人物のキャラクターをしっかり書きこむことで物語の骨格に肉づけして行くアメリカ文学らしい手ごたえのある作品。主人公であるフェイの造形が丁寧なのでストーリーが力強くドライブして行く。しかし残念ながら本作は世評を得られず、ディックはSFを書き続けることになった。フェイの話し言葉が時代遅れの「あばずれ言葉」みたいに訳されており興醒めするのが残念だが、ディック・ファンなら読んでおいて損はない。

 
A Scanner Darkly スキャナー・ダークリー 1977 (ハヤカワ文庫 浅倉久志・訳)

ジャンキーの中に潜入した麻薬捜査官アークター。ある日彼は自分自身を監視するよう命令を受ける。物質Dと呼ばれるドラッグのせいで次第にアークターの意識は分裂し、ついに廃人になったアークターは更正施設ニュー・パスに収容される。だがそこは実は物質Dの供給源であり、彼はそこに潜入するため捜査機関の手によって意図的に廃人にされたのだった。すべてはニュー・パスの内情を調査するための遠大な計画だったのだ。

この作品はディックの小説の中でも異質である。訳者・山形によるあとがきにもあるとおり、ここではSF的な道具立てが逃げ道にならず、ひたすら悲惨なジャンキーの末路が冷徹に描かれて行く。この救いのなさ、この硬質さは他のディック作品には類がない。スクランブル・スーツというガジェットは登場するが、この作品がSFである必要は何もない。行き場のない生、緩慢に死に行く生の薄ら寒い実感は僕たちに普遍的なものだ。

アークターがニュー・パス(「新しい小径」とは…)に収容されてからのストーリー展開の急さに戸惑いはあり、そこに至る伏線の不十分さにはやや不満も残るものの、この作品は小説としてディックの他のどの作品よりも高い完成度を誇っており、読書が僕たちの生の本質を直接ビートできることの何よりも確実な証拠となり得ている。私見では間違いなくディックの最高傑作。ドラッグ小説である前に正しい意味で「文学」である。

この作品は現在ハヤカワ文庫から浅倉久志による訳で出版されているが、以前は『暗闇のスキャナー』のタイトルで、創元SF文庫から山形浩生の訳で出版されていて、このレビューは創元版を読んで書いたもの。好みの問題だが、生硬なところもあるがスピード感を重視した山形の訳をお勧めする。
 
VALIS ヴァリス 1981 (ハヤカワ文庫 山形浩生・訳)

これは困難な作品である。この作品を殊更に高く評価する人がいるのは知っているしそれも分かるような気もする。しかし、僕のようにまともな社会生活を送っている常識人の立場からすれば、これはディック自身長年のドラッグ濫用の影響で頭にきちゃって救済を求めるあまり適当なエセ神学をでっち上げた、精神分裂症患者の戯言のようにしか感じられない。そして、それもまた本作に対する正当な評価の一つなのだと思う。

主人公ホースラヴァー・ファットはディック自身の病んだ精神が作り出したもう一つの人格。ファットはピンク色の光を浴びて神の啓示を得る。神が彼の頭の中に直接情報を送り込んでくるというのだ。そしてファットは自分の体験と符合する映画「VALIS」を見る。映画の監督であるミュージシャン、エリック・ランプトンを訪ねたファットは、そこで神の生まれ変わりである2歳の幼児ソフィアに会う。はあ。書いてるだけで疲れる。

全編この調子で進んで行くので読み通すにはかなりの根気と努力と読み通すぞという固い決心が必要。「ダ・ヴィンチ・コード」でおなじみの聖杯伝説が顔を出したりするが、キリスト教に造詣も興味もない極東のサラリーマンには所詮どうでもいい話。神が電波で情報を送ってくる、とか、この映画は僕の経験と一致する、とか言い始めたら普通は病院行き。ソフィアに会ってファットがフィルと合一を果たすシーンが唯一印象的。

 
The Divine Invasion 聖なる侵入 1981 (ハヤカワ文庫 山形浩生・訳)

ハーブ・アシャーは外宇宙の植民星で一人暮らしている。隣のドームに住むリビスは神経衰弱だが、彼女は処女受胎で神の子を授かる。彼らは神なる子を孕んだまま邪悪なるものに支配される地球へと帰還するが事故に遭遇し、リビスは死亡、アシャーは冷凍睡眠された。生まれた神の子供イマヌエルは脳に障害を負い、自分が何者かを忘れてしまっていた。やがて彼の前にジナと名乗る少女が現れ、世界は少しずつその姿を見せ始める…。

前作よりは小説然としており、まだ何とかSFを読むつもりで読むことができる。終盤に行くとそれまでのストーリーが放棄され、イマヌエルとジナが作り出した世界でアシャーが第二の生を生きる話になってしまうところまではまだいいとしても、全編を覆うこのインチキ神学の有り難さは何とかして欲しい。初期であれば「宇宙の操り人形」、中期であれば「銀河の壺直し」を思い起こさせる神学的モチーフの氾濫にうんざりだ。

ストーリーは前作を受けて展開しており、「ヴァリス二部作」というならそうなのだろう。何もかもを自分の「神秘体験」に結びつけて解釈しようとする晩年のディックの脳みそグルグル状態がよく分かる。まあ、あんまり神とは何か、神性とは何かを真剣に考えながら読むよりは、何じゃこりゃと思いながら時間と空間を巡るSF的解釈の一つとして気楽に読むのがきっと正しいのだと思う。ディックが生前に発表した最後の作品となった。

 
The Transmigration Of Timothy Archer
ティモシー・アーチャーの転生
1982 (ハヤカワ文庫 山形浩生・訳)

ディックの遺作として発表された作品で、SFではない一般小説とされる。『ヴァリス』『聖なる侵入』と合わせて三部作であるとの説明がなされることもあり、内容的に直接の連続性はないものの、確かにこれらの作品を踏まえて本作を読むことで腹に落ちやすい部分はある。LAに住むエンジェル・アーチャーという女性の一人称で語られる、ディックには珍しいスタイル。そのせいもあってか、比較的読みやすく、小説としての完成度は高い。

ここでは、『ヴァリス』『聖なる侵入』の主題であったディック自身の神秘体験や、そこから派生した独自の神学による世界の再解釈が徹底して相対化され、オカルト的なものへの傾倒によって現実との不整合を取り繕おうとする心性が明快に否定されている。それじゃあアレはいったい何だったのよとも思うが、おそらくディック自身にも神秘体験をどう説明しどう受け入れるかという葛藤があり、彼の世界観もまた揺れ動いていたのだろう。

自殺した夫の話を聞くために怪しげな霊媒のもとを訪れるエピソードや、イスラエルの砂漠で死んだティモシー・アーチャーが最後の最後に愛人の息子に憑依するエピソードなど、オカルト的な解決に宿命的に惹かれながらも、「でも普通に考えておかしいよね」という常識もあって、それが苦しいのだとディックは訴えている。また自分が機械だというエンジェルの認識はディックのアンドロイド感を示唆するものとして興味深い。読むべき。

『ヴァリス』『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』は創元SF文庫から大瀧啓裕の訳で出版されていたが絶版となり、2014年から15年にかけて、ハヤカワ文庫から山形浩生の新訳で再刊された。『ヴァリス』『聖なる侵入』のレビューは創元版、『ティモシー』のレビューはハヤカワ版を読んで書いたもの。

その後、『ヴァリス』『聖なる侵入』をハヤカワ版で再読し、その勢いで未読だった『ティモシー』を読んだが、山形のツボを押さえた訳でこの3作に表れているディックの世界観が随分明瞭になったし、その限りで『ヴァリス』『聖なる侵入』も(無茶な部分は無茶として)すんなり読める。今なら違うレビューを書くだろう。

ディック神学自体はむやみに有難がるようなものではないという考えは変わらないが、ハヤカワ版を読んで、晩年の作品としてディックが何を求めていたかを示唆する重要な作品群であることが素直に腹落ちできた。古本で創元版を買わず、ハヤカワ版の山形訳を読むことをお勧めする。
 
Radio Free Albemuth アルベマス 1985 (創元SF文庫 大瀧啓裕・訳)

ディックの死後に原稿が発見されて出版されたとか何とかそういう経緯の作品で、まあ言ってみれば生前のディック自身は没にしたもの。そういうのを後追いで世に出すのはどうなのかという問題はあるが、これは『ヴァリス』『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』という「ヴァリス三部作」の成立過程においてかかれたその原型とも言える作品であり、それらのサブ・テキストとして読むことで書誌的な価値の生まれるものだ。

ここでもディック自身が経験したと言われる「神秘体験」をベースに、地球の周回軌道上にあってメッセージを送ってくる異星人の古い人工衛星とかそういうものが想定されている。登場人物やストーリーは『ヴァリス』の中で言及される作中映画「ヴァリス」と共通しており、ディックが「ヴァリス三部作」に書きたかったモノや、書こうかなと思ってやっぱり書かないことにしたモノが窺える。没作品とは思えないくらいまとまっている。

「いま起こっているのは、高度に進化したプラズマ状の生命体を、通信網によってアルベマス星系の惑星から人工衛星に移動させて、そこからこの星の表面に移すことなのよ」とか書かれても「何言ってんのかちょっと分かんないですけど」というのが普通の反応。ディック本人もそこは理解しつつ、説明のつかない体験を何とか作品に昇華しようとしてる訳だ。『スキャナー』を思わせる部分もあり小説としても面白いので読んで損はない。

 
Voices From The Street 市に虎声あらん 2007 (ハヤカワ文庫 阿部重夫・訳)

日本語のタイトルは「まちにこせいあらん」と読む。ディックが雑誌にSF短編を発表し始めた時期にあたる1952年ごろに書かれた「普通小説」だが、ディックの生前には出版されず、2007年になってようやく日の目を見たものである。「ジャック・イジドアの告白」もそうだが、ディックはやはりこうした「ちゃんとした小説」を書いて文学者として認められたかったんだろうなと思わせる大作であり、出版もしてもらえないほど悪くはない。

街のテレビ販売店で働くスチュアート・ハドリーが、現実からの疎外に悩み新興宗教に入れあげたうえ、最後は不倫関係のもつれから錯乱して生まれて間もない我が子を連れ出したまま街をさまよい、勤め先であったテレビ販売店に押しかけて騒ぎを起こし片目を失う重傷を負うというストーリー。ケガが癒えたとき、ハドリーはようやく心の平安を得るが、同時にかつてハドリーを駆り立てていた荒々しい生命力の炎も消えてしまっていた。

ハドリーの生活ぶり、彼を取り巻く人々とのやり取りが丁寧に書きこまれており、目に見える現実と自分自身が求めるものとのギャップから破綻に向かうハドリーの心情は十分に真に迫っている。解説で山形浩生が「その後のディックに見られる要素がすべて詰まっている」と書いているのも分からなくはないが、いかんせん長く、あとタイトルに見られる通り訳文がムダに晦渋で読みにくいのが難点。ファンなら読んでおくべきとは思うが。



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