logo 愛国心って何だ


僕はかつて、1992年2月から7月まで、ドイツのマンハイムという工業都市にある語学学校でドイツ語を学んだことがある。日本でもドイツ語学校に通い、初級試験に合格して行ったので、現地では中級のクラスに入ることになった。20人弱ほどのクラスだが、生徒は世界中の国から集まって来ている。アメリカ、イタリア、ギリシャ、トルコ、ブラジル、コートジボワール、中国、インドネシア…。もちろんドイツ語が母国語でない者ばかりだ。

その時のことなのだが、授業の中にそれぞれの国を紹介するというのがあった。みんなそれぞれの母国がどんなところか、ドイツ語で発表するのである。中級のクラスなので必ずしもみんな流暢に説明できる訳でもないが、それでも一人ひとり「私の国はこんなところで…」とか「私の国はこんな歴史があって…」みたいなプレゼンテーションをやる訳だ。

このプレゼンが最もプアなのは間違いなく日本人だった。大勢の前で何かを発表するという訓練をそもそも受けていないとか、ドイツ語が下手だとかそういう理由もあるが、それ以前に、僕たちは自分の国を紹介できるほど自分の国を知らないのである。地理、歴史、風俗、政治、経済、文化…。日本語でいい、これらをまとめて、あるいは何かテーマを絞って、「私の国はこういうところです」と5分でうまく日本を知らない外国人に説明ができるだろうか。僕は自信がない。

そう、僕は海外に住んで初めて、自分が日本という国のことを何も知らないのだと気づいたのだ。もちろん小学校から高校まで、一応社会科は勉強した。それどころか大学では国際政治学のゼミで「日本のナショナル・アイデンティティとは何か」という気恥ずかしい論文まで書いた。しかし、結局のところ僕たちは、総体としての「日本」とは何か、日本に生まれ、日本語を話す日本人であるとはどういうことか、それを対象化して考える機会をほとんど与えられてこなかったのだ。

国を愛するかどうかは個人の自由だ。僕だって日本という国に生まれて本当によかったと思うこともあれば、日本人であることにうんざりするときもある。しかし、世界が好むと好まざるとに関わらず百数十の国家の集合体として組織されており、僕たちが好むと好まざるとに関わらず日本人である以上、国を愛するかどうか以前に、そこにおいて日本という国はどういうところなのか、日本人であるということはどういうことなのか、僕たちはそれをきちんと考えなければならない訳だが、果たしてそのための機会を僕たちの小学校や中学校、高校は提供してきたのだろうか。

国境線を持たない我が国では、日本が世界中にたくさんある国々のひとつに過ぎないということ、我々と価値観を共有しない国々や人々がたくさんあるということの認識は持ちにくい。しかし、僕たちがまるで水や空気と同じようにしか考えていない「日本という国」は実際にはとても特殊なところであり、ひとたび国の外に出れば僕たちは否応なくそれを代表することになる。その時にきちんと「日本」を語る言葉を僕たちは持っているだろうか。僕たちの学校は、戦争が終わってから長い間、日の丸や君が代だけでなく、「日本という国」について考えることすら、何か忌まわしいことのように避け続けてきたのではなかったのだろうか。

世界が狭くなり、往来が激しくなっても、いやそうなればなるほど、国家というものの持つ意味はなくならないどころか大きくなり続けるだろう。「国際人」として国境を越えて活動をすればするほど、僕たちは「母国」である日本を意識しない訳に行かなくなる。その時に、自分の母国を知り、母国とは何かということを考え、それを外に向かってきちんと説明できるということは国際社会における最低限の教養でありたしなみだ。そうした「思考の基礎体力」を提供するのが「教育」の仕事に他ならない。

僕たちはどこまで行っても日本に生まれた日本人であるという事実から逃げられない。そうであれば気に入る部分も気に入らない部分もひっくるめて自分が日本人であるということを引き受ける「覚悟」や「責任」、あるいは「誇り」があってしかるべきだし、それこそが「愛国心」という言葉で呼ばれるべきものの中身なのかもしれないと僕は思う。



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