logo ヒトラー 〜最期の12日間〜


ベルリンは奇妙な街だ。僕が初めてベルリンを訪れたのは1992年のことだった。ツーリスト・インフォメーションで紹介してもらった宿に泊まり、地下鉄やSバーンで街を歩き回った。既に壁はあらかた撤去されていたが部分的には残っており、ポツダム広場はまだ廃墟のようなガランとしたところで、アスファルトには東西に分断されたときに放棄された路面電車の線路が埋もれていた。壁はなくてもどこまでが西がどこからが東か、街並みを見ればすぐに分かった。壁の背後にあった緩衝地帯の無人のビルがこの街の歪んだ歴史をそのまま物語っていた。

次に行ったのは1998年、このときはクルマでアウトバーンをとばした。1日がかりでたどり着き、裏通りのこぢんまりしたホテルに泊まった。ベルリンはすっかり変わっていた。それも東がだ。ブランデンブルグ門から南へ下るヴィルヘルム通りは高級ブティック街に姿を変えていた。ポツダム広場にはソニーセンターが威容を現そうとしていた。あちこちで再開発が行われていて、東ベルリンは一足飛びに西を追い越そうとしているように見えた。その性急さ、その生活感のなさが相変わらずこの街の失われた月日を際立たせているように見えた。

1945年、この街で熾烈な市街戦が戦われた。これはその戦争の最期、ドイツの降伏に至る12日間の物語である。

ここには教訓はない。分かりやすい答えもない。ただ第三帝国が音を立てて崩壊して行く最後の姿が描かれているだけだ。恐ろしいのは、この帝国を動かしていたのもまた人間であったということだ。ヒトラーも、スターリンも、ポル・ポトも、みな人間であり、彼らの指示を遂行した部下もまた人間であったということなのだ。僕たちとは無関係で異質な別の生き物が想像もつかないような残虐なことをしたのではない。僕たちと同じ人間がユダヤ人を「処理」し、政敵を粛清し、インテリを殺しまくったのである。それはもともと僕たちの想像力の中にあったできごとなのだ。人間にはそういうことができるのだ。

この映画を見るとそのことがよく分かる。第三帝国は決して機械仕掛けで動いていた訳ではない。そこにいたのは血の通った人間であり、危機に際して追いつめられ、苦悩し、困惑し、狼狽し、その結果、裏切ったり、自暴自棄になったり、自ら死を選んだりした。それは当たり前の人間の当たり前の行動だ。ここにあるのは僕たちの世界と隔絶したところにある何かではない。むしろ、僕たちの毎日の生活と極めてよく似た何かだ。起こっていることのスケールとかその背景になっている思想とかは確かに特殊だが、そこで人間と人間の間で起こる摩擦や軋轢は僕たちが見慣れたものとその本質において同じではないのだろうか。

そう、第三帝国の話を聞いて僕たちがゾッとするのは、それが単に常軌を逸した異常なできごとだったからではない。むしろ、そんな異常なできごとが実際に起こり得るということが本能的に理解できてしまうからだ。人間が作り上げるシステム、組織が誤作動したときにどんな無茶苦茶な結果が発生するのか、分かるような気がするからこそ怖いのだ。そして、いつかどこかでまた同じようなことが起こっても不思議ではないと思えること、その時に僕たちがそれを確実に止めることができるという確信の持てないこと、それどころか僕たち自身がそれに加担してしまう可能性だって十分にあること、それこそが僕たちの恐怖の源なのだ。

だれかが言ったとおり、想像することが恐怖を生む。しかし、だからといって僕たちは想像することを放棄することはできない。ジェノサイドを生むのが想像力ならそれを止めるのもまた想像力に委ねられた仕事だからだ。この映画を見て僕たちが胸に刻むべきことがあるとすれば、これは決してよその惑星の話ではない、他でもないこの地球でたかだか60年ほど前に実際に起こったことであり、似たようなことは今でも起こっているのだということだろう。そう、これは僕たちとは無関係な話ではない、むしろ、僕たちについてのストーリーなのだと。



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