ルール
どんなルールにもそれぞれ理由がある。合理性のあるルールもあれば首をかしげざるを得ないようなルールもある。そのルールによって公正な結果が確保されることもあれば、ルールがあるために納得できない結果が出ることもある。 例えば浅田真央の場合。彼女をトリノ・オリンピックに出してやりたいと思う気持ちは多くの人が共有していることだろう。例えばみずほ証券の場合。他人のミスに乗じて多額の利益を得る人が出ることに釈然としない思いを抱く人は多いだろう。例えばマンションの強度偽装の場合。ローンで買ったマンションが欠陥建築だったら国が買い取ってやれと考えるのも無理からぬ面はあるだろう。 しかし、それでは年齢制限を定めた国際スケート連盟の規定に何の意味があるだろう。売りたい人と買いたい人の意思の合致で契約は成立するという法律の価値はどこに行ってしまうだろう。特定の個人の財産の形成に公的資金を投じないという原則をだれが省みるだろう。 結果が正しいかどうかにはいつでもいろんな意見がある。何が正しい結果かということは人によって考え方が違うから、あらかじめ手続をきちんと決めておくことで、その手続に則って導き出された結論はみんなで受け入れることにしようというのが「ルール」というものの考え方のはずだ。そうやって出てきた結論が気に入らないからといってルールを無視していいというのなら、初めからルールなんて作る必要はなくなってしまう。 もちろん実状に合わないルール、不合理なルールは常に見直し、作り変えて行かなければならない。しかし現にそこにルールがある以上はそれを守ることが社会というものの前提である。だれかが適当にルールをねじ曲げたりいいように解釈したりすることの怖さ、危うさを僕たちは社会の授業で習ったはずだったが、結局それは僕たちの国にはちっとも根づかなかったということなのかな。結果が妥当ならルールを歪めてもよいという考え方は、結果の「正しさ」について考え方の多様性、相対性を前提とする僕たちの「民主主義」と相容れないはずだと僕は思う。 2005 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |