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少し前のことだが、日本人がイラクで武装勢力の人質になったとき、その家族の発言が激しく批判を浴びたことがあった。僕はテレビを見ていないので家族がそのときどんなことを言ったのかよく知らないのだが、人質になったのは日本政府がイラクに自衛隊を送ったせいなのだから撤退してくれと言ったとか言わないとかいう話ではなかったか。結局人質は全員無事に解放されたんだけども。

最近では北朝鮮から拉致被害者の家族5人が帰ってきたときに家族会が「最悪の結果」とコメントしたのにも激しい非難があったようだ。この発言は、他にも拉致の疑いがもたれているのに消息の知れない人たちや死んだとされている人たちの情報が何も解明されないまま制裁の不発動を約束して5人の家族「だけ」を連れ帰った総理大臣への批判であった訳だが、このときも家族会には厳しい批判が寄せられたという。

もちろん家族が異国で人質になったり、行方不明になったまま何年も耐えることを余儀なくされた人たちのことを考えれば、少しばかり気持ちが先走って先鋭的な発言に至る気持ちは理解できないではない。何かにつけ標的を見つけるとよってたかってボコボコにしてしまう日本人のヒステリックな反応にはうんざりするし、名前も明かさずに嫌がらせをしたりするのもいかにもありがちで不気味だ。

しかし、こうした人質家族や拉致被害者家族の発言に、率直な違和感を持った人も多いのではないだろうか。僕自身そうである。そういう人たちの素朴な感情の一部が批判や非難、嫌がらせとなって表れたのだと僕は思っている。そしてそれは、弱者がモノを言うことへの違和感とか、政府批判を許さない保守的な風潮とか、世間で言われているような大げさな話とはちょっと違う気がする。

海外で危難に遭っている同胞を救うことは国家の最も基本的な使命だ。我が国の領土から無理矢理連れ去られた同胞を奪還することも主権国家として当たり前のはたらきだ。だからこそ我々は少なからぬ国費を投じて人質を取り戻し、総理大臣を週末に日帰りでピョンヤンまで派遣したのだ。国家がある意味で巨大な互助会のようなものだとしたら、彼らは我々国民ひとりひとりのコミットのおかげで帰還できたのであり、拉致被害者の家族だって全員ではないにせよ戻ってきたのだ。

そこで使われたカネは結局のところ互助会の会員である我々が少しずつ出しあった税金に他ならない。互助会の事務局である政府の段取りに具体的な不満はあるだろうが、「国民」と「国家」を分けて考え、「国家」に対する不満を「国民」の皆さんと共有しようというのは倒立した理屈である。なぜならそれは我々が選んだ我々の事務局だからだ。国家とは我々自身のことなのだ。

自衛隊のイラク派遣も、対北朝鮮政策も、我々の代表が正当な手続きを経て決めた我々の政策である。もちろん1億人以上も会員のいる巨大な互助会だから必ずしもみんながそれに諸手を挙げて賛成している訳ではないしにしても、そこに至るまでには相応の議論といかにも民主主義的な七面倒くさい手続きがあった訳だ。個人としてそれにどんな感想を持つのも自由だが、被害者、あるいは被害者の家族だからというだけの事情で、そうした手続きをすっ飛ばして国家の政策に例外的な発言力、影響力を持ち得るのだとしたら、それは民主主義に対する重大な挑戦だと言えなくもない。

まあ、そんな大げさな話でなくても、結局僕たちは、彼らの非難を僕たち自身に対する非難であるかのように感じたんじゃなかっただろうか。国家は決して我々と無縁に存在するのでも、我々と対立するのでもない。国家とは所詮我々自身が会員であるところの巨大な互助会に過ぎないのだ。人質や拉致被害者家族は別にしても、ふだん民主主義を標榜する人たちほど、まるで他人事のように国家を批判できるのは不思議なことだと僕は思う。



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