logo 喝采


近所の小学校の運動会に行ったのだが、そこで一つ驚いたことがあった。子供たちが一所懸命走ったり組体操をしたりダンスをしても、パラパラというまばらな拍手しかないのである。これはどういうことなんだろう。

原因の一つはビデオだ。どの親も夢中になってビデオを撮影している。三脚に固定していればともかく、ハンディカムの類を持ちながらだと拍手したくてもできない。それは道理である。それにも賛否はあろうが、自分の子供の勇姿を映像として残しておきたいという気持ちは理解できるので僕としてはそれ自体を責める気にはなれない。我が子をビデオ撮影するためには人の迷惑顧みず前線に出て行くことも厭わないロバート・キャパ魂のはた迷惑は別問題として、だけど。

しかし、例えば1年生の演技中なら2年生から6年生までの親は普通ビデオ撮影はしていないはずだ。ビデオに忙しい親の代わりに彼らが拍手して盛り上げてやればいいじゃないか。彼らは何をしているのか。彼らは演技を見ていないのである。

自分の子供が出ているときは前線にテンパってビデオを撮影しキャアキャア熱狂する割に、それ以外の時にはまったく興味を示さない。組体操のキメでも、1年生の可愛らしいダンスが終わっても、リレーでトップが入れ替わっても、自分の子供に関係がなければまったく無関心だし、だから当然拍手だってしない。親どうしおしゃべりしているかビール飲んでスポーツ新聞読んでるかどっか行ってるか。

もちろん自分の子供の出ていないプログラムまで熱心に見入る人は少ないだろう。それは人間の自然な感情として理解できるし僕だってそうだ。だけど運動会は自分の子供の出るプログラムだけで構成されているのではない。自分の子供の通う小学校の行事であればそれ自体が成功するようにサポートするのが親としての「仕事」だろう。そうであれば仮に興味のもてない演技であってもそれぞれのポイントで拍手するくらいの儀礼はあるべきではないのか。

ご近所とかの共同体が半ば崩壊する中で、自分の子供以外には興味を失ってしまう、そのこと自体はある程度やむを得ないことだと思う。しかし、興味のもてないものであっても、いや、そうであればこそ、「互いの無関心に対する配慮」みたいなものが必要になると僕は思う。拍手という形で、互いに興味がないものどうしで一つのものを運営することへの緩やかなコミットを表明するのは悪い考えではないはずなのに、と思うのだ。

誤解のないように言っておくが、隣近所がみんな知り合いで、運動会に出ているのも知った子供ばかり、最初から最後まで惜しみない拍手を送る、というような「濃い」共同体の復活を僕は願っているのではない。そうではなく、自分の子供にしか興味がない、というような人ばかりが集まって一つの行事を運営することを前提にしながら、むしろその互いへの無関心を尊重するためにこそ、それを成功させるための新しく緩やかで自発的なルールがあっていいはずだと思うし、他の学年の演技でもキメの部分できちんと拍手をするということはその入口ではないのかと思う訳だ。

そういう「新しく緩やかで自発的なルール」が存在しないまま互いの無関心だけが先走りすることからいろいろな問題が生まれているように思うし、それが封建的な共同体回帰論みたいなものに回収されて行くのは面白くない。無関心でいる自由を守るためにこそ、よその子供たちの力走にもきちんと「形ばかりの」拍手をしてやろうというのはおかしな理屈かな。



Copyright Reserved
2003 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com