logo 憲法なんかいらない


コイズミ内閣が発足してもう半年。内閣改造をするとかしないとか話題になっているので驚いたんだけど、もうそんなに経ってたのか。内閣ができて半年経ったからって改造を云々する人たちの頭の構造はいったいどうなってるんだという気もしないではないが、日本的には閣僚の「能力」なんかより「順番」の方がよっぽど大事なんだろう。

さて、就任半年を迎えたコイズミ総理なんだけど、久しぶりにやってくれたね、「おかしい人がいる」発言。知らない人のために説明しておくと、この夏のコイズミの靖国神社参拝を違憲だと提訴した人たちを指して「話にならんね。世の中おかしい人たちがいるもんだ。もう話にならんよ」と発言したらしい。

僕はこの発言自体をそんなにおかしいとは思わない。だってコイズミの靖国参拝がおかしいと思っても、わざわざ私財を投じてその違憲性を問うような裁判を起こしたりする人は普通なかなかいないでしょ。そんな時間もカネもそこまでやる気もないのが普通の人だ。それを敢えてやる人というのはしたがって何か政治的背景があるか、そういうことが趣味的に「好き」な人か、ともかく我々の日常生活の局面では「ちょっと変わった人」のはず。「世の中おかしい人たちがいる」という言葉遣いで僕たちのそんな実感を的確にすくい取って見せたコイズミの方向感覚の確かさは政治家としてすごい。多くの人が実際にはまだ何もやっていないコイズミを異常なまでに支持しているのは、この人のそういう皮膚感覚、庶民的実感の確かさを無意識に感じているからだと思う。

そもそもあの参拝からしてそうだった。首相が正面切って靖国神社に参拝することは憲法上困難な問題を含んでいるが、コイズミは結局「戦没者を悼むのは当然」という常識論以上のことは言わなかった。「近隣諸国」の反発には配慮したが憲法には無頓着だった。その根拠は「常識」であり「心情」であったと言っていい。

テロ対策法案への対応も根は同じだ。今回のテロ対策法による自衛隊の海外派遣は、憲法そのものはおろか、集団自衛権の行使は違憲だとしてきたこれまでの政府の憲法解釈から見ても極めて微妙なものだと思う。しかしコイズミは「常識的に見て自衛隊は戦力」、「憲法の前文と九条には隙間がある」、「テロ対策法と憲法の関係はあいまい」などと「率直な」名言を残しながら、結局この情況では自衛隊の海外派遣もやむを得ない、軍隊なのに戦地に出ないのはおかしい、という「素朴な常識論」や「結論の妥当性」を貫いた。

首相が靖国神社に詣でることがいいことか悪いことか、あるいは自衛隊の海外派遣が正しいことか間違ったことか、そんなことはどうでもいい。いや、どうでもいいことはないんだけど、それは考え方の問題だからいろいろな意見があっていいと思うし、コイズミの「常識論」も多くの人(特にサイレント・マジョリティ)に受け入れられているという限りで悪くない「答え」だと思う。

しかし、僕たちの民主主義で大切なのは「答え」ではなく「手続き」のはずだ。なぜなら、「答え」の正しさというのは所詮相対的なものであり、どんな「答え」にも間違いは内在しているからである。だからこそ民主主義は「答え」の正しさの自動性を疑い、「答え」を出すための手続きを厳格に定めることで「答え」の正当性を確保しようとしているのだ。

憲法はその最も大切なルールを定めた国家の綱領だ。そこには七面倒くさい理屈が並んでいるが、どんな「答え」もその面倒な手続きを経ることで初めて政策としての正当性を獲得することができる。いくら「答え」が正しいからといってその手続きをないがしろにすることは法治国家として許されないことだ。

コイズミの皮膚感覚の正しさは、まさにその正しさ故にこうした民主主義の根幹を揺るがす危険をはらんでいる。正しければ正しいほど、手続きは厳格に尊重されなければならない。何度か書いたことのような気もするが、正論は時として大変抑圧的に機能する。「常識」に答えを求める手法はいずれ大きな反動を招くかもしれない。



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