logo 正気ですか


それにしてもあれはエグかったよなあ。さすがの僕も言葉を失ったよ。あれって何かって? いやだなあ、あれって言えばあれじゃないですか、池田の事件。宅間容疑者。ていうか「容疑者」なんて悠長に人権に配慮したりなんかしてる場合じゃないよな。「容疑」じゃなくて現に殺してるだろっつうの。なんだろね、まったく。ま、いいけどさ。僕もたいていの事件は面白半分に見る方だけど、あれはちょっと、何というか、何とも言いようのない事件ではあった。

こういう事件が起こると、キチガイを野放しにするな、という議論が出てくるのはいつものことで(今「きちがい」を変換しようとしたが「気違い」が出なかった。恐るべしATOK。単語登録するか)、そこでまた人権擁護派との間に神学論争にも似たバトルが展開される訳なんだけど、思うに、何の落ち度もない人間がごく日常的な生活空間で理由もなく殺されたりしないということは国家が国民に対して保障するべきごく当たり前の「権利」の一つなんじゃないのかな。だとすればそれを脅かすものはむしろ「人権の敵」な訳で、国家がそれを排除するのは「公共」の名において許されるべきことだと思う。ていうか、そうやって社会の安全を確保するのが国の仕事でしょ。

自分のやっていることの社会的な意味が理解できない、善悪の区別がつかない、そういう責任能力のない人の行為を罪に問うことはできないのだという刑法の大原則それ自体はもちろん理解できるんだけど、それならそんなヤツは初めっから事件なんか起こしようがないようにブチこんどけという議論は否定できない説得力がある。通り魔みたいな事件で殺されて、捕まえてみれば犯人はキチガイでした、無罪になりました、なんていうんじゃ、殺され損というかなんというか、まあ、殺されて得もないんだろうけど、いかにも納得できないというのは自然な感情だよね。

ただ、今日僕が本当に書きたいのはそういうことじゃない。仮にキチガイをブチこめということになったとき、じゃ、キチガイってだれなのさ、ってことなのだ。

キチガイの集団の中では正気の人こそキチガイだとか、「キチガイ」の意味は時代や社会によって違うのだとか、そういう議論はちょっと置いとくとして、僕が言いたいのはこういうこと。つまり、僕もあなたもみんな少しずつキチガイなんじゃないの?

当たり前のことだけど、この世の中にはキチガイと正気という2種類の人間だけがいる訳じゃない。僕たちはみんな、究極のキチガイと究極の正気を両端にしたグラデーションのどこかに位置づけられるだけなのだし、その中でどこまでが正気でどこからがキチガイか、あるいはどこまでがキチガイでどこからが正気なのか、明確に線を引いて見せることのできるヤツなんてだれもいない、そうなんじゃないかな。

とんでもない、オレは正気だよ、とあなたは言うかもしれない。僕だってそう思ってる。少なくとも日常的な文脈では。でも、例えば正気が高じてキチガイになった人にとっても、おそらく正気だったときの文脈とキチガイになってからの文脈は連続しているんじゃないだろうか。人間の精神活動なんてどのみち主観的で相対的なものに過ぎないのだから、そこにおける自分の正気の認識なんて一種の自家撞着に過ぎない。オレは自分が正気だと思ってる、だからオレは正気だ? それホント?

むしろ、自分の正気を疑える方がまだ正気に近いという気もする。だとすれば、自分で通院して薬を処方してもらって、いいというのに無理矢理入院までしてしまったという宅間容疑者はかなり正気だったのか…。ともかく、キチガイとか正気とか、それは僕たちがふだん思っているほど自明のことではないはず。キチガイはブチこめと言っていた人が、そういう法律ができた途端にブチこまれることだってないとは言えない。だからキチガイを指さす人は逆に自分がどこかで指さされているかもしれないという可能性に常に自覚的でなければならないはずなんじゃないかと僕は思うのだ。そして、それでも僕は社会の安全を守るためにだれかの人権が制限されることはやむを得ないと思っている。だって僕は正気なんだから…。



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