logo 大勢いる日本人


1999年の9月に池袋で通りがかりの人を片っ端から刺し、2人を死なせた男が公判でこう言ったそうだ。「日本という国はあまりいい国ではないと思っていた」と。彼が犯行に出かけるとき、部屋に残した書き置きには「アホはみんな殺したるけえのお」と記されていたとか。

両親に遺棄され、進学もままならず、職を転々とし、鬱屈した毎日の中で同僚からと思われる無言電話が頭に来てキれた。同僚は日本に大勢いるような人だから、大勢いるような人に殺意が生まれた。なぜ同僚ではなく大勢いる日本人なのかと訊かれてこの男が答えたのが「日本という国は〜」という発言だ。「日本では努力に対する対応がない」とも言ったらしい。

実にワイルドだ。実にリアルだ。これが映画だったら僕は感動したかもしれない。だけどこれは映画ではない。この男は本当に包丁を手にして池袋の街頭に立ち、2人の人間を実際に殺してしまった。「大勢いる日本人」について論じることはできても、「大勢いる日本人」を殺すことはできない。雑踏に切りつけた瞬間、刺された人は抽象的な「大勢いる日本人」であることをやめ、個別の名前と個別の物語と個別の関係性を持った一人の固有の人間として具体性、記名性を帯びてくるからだ。記名性のワナだ。無色透明で価値中立的な、「典型的な日本人」なんて本当はどこにもいないのだ。

そんなことも分からず、本当に雑踏に切りつけるしかなかったこの男に同情の余地はない。彼の犯した罪にどんな刑がふさわしいのかは僕が決めることではないが、少なくとも彼の行為が相応の裁きを受けなければならないことは疑いがない。場合によっては極刑もあるかもしれないが、それもやむを得ないと僕は思う。

だが、それでも僕は何か割り切れないものを感じる。それはこの男に対する処遇の問題ではない。人殺し→逮捕→裁判→判決→執行。OK、それはそれでいい。我々の社会はこのステップをひとつひとつこなして行く。だが、それは事実の極めて制度的な側面に過ぎない。僕たちがこの事件について考えなければならないことは他にある。

実際に包丁を手にするかどうかという部分にはもちろん大きな飛躍はあるが、それにも関わらず僕はこの男の「大勢いる日本人」に対する殺意を共有できるような気がする。バカだけを選択的に殺す新型爆弾か何かを開発して、日本人をバカな方から半分殺すという訳には行かないかなあ、なんてバカげたことを思ったりはする。少なくとも「日本という国はあまりいい国ではない」という物言いに、「そうだよな」と抽象的にうなづくことはできる。

今、僕が最も怖いと思うのは、こうした感情がほとんどの日本人によって共有されているのではないかということだ。そうであれば僕たちは、実際に人殺しに走ってしまったこの男の「行為」を裁くことはできても、「動機」を裁くことはできないはず。そして彼の犯罪全体からその「異常性」や「行為」だけを純粋に抜き出して裁くということが可能なのか、可能だとしてもそんなことにシステムを貫徹するという以上の意味があるのかと僕は考えこまざるを得ない。

人は自分に似たものを嫌悪する。そこに直視したくない自分の弱さ、汚さ、醜さをデフォルメして見るからだ。仮に僕たちが、この「大勢いる日本人」に対する殺意の本質を突き詰めないまま、あるいは「日本はあまりいい国ではない」という認識の真偽を見極めないまま、この事件を犯人の特殊性の問題に押し込め、自分は局外者として一方的にそれを指弾しようとするなら、僕はそれは欺瞞だと言いたい。彼を糾弾することは、とりもなおさず自分の中の「日本人」に対する嫌悪や憎悪、「この男に似た自分」を指さすことに他ならないのではないのか。

なぜ僕たちは日本人としての自画像に満足できないのか。なぜ僕たちは自分の国を素直に誇れないのか。そしてなぜ僕たちはそれをまるで他人事のように平然と口にできるのか。僕たちはそれをこそ裁かなければならない、テレビの前でアホ面下げて「悪いヤツだねえ」なんて他人事みたいに言ってる自分をこそ問わねばならないのではないか。


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