logo 帰ってきたヒトラー


アドルフ・ヒトラーが現代に出現したらどうなるか。それを描いたのがこの映画である。ヒトラーは2014年のベルリンに現れる。おそらく、1944年、ベルリン陥落直前に自殺し遺体にガソリンをかけられて焼かれる直前に何らかの理由で70年タイム・ワープしたのだ。

物語はコメディ調で進展する。ヒトラーは本物そっくりのコメディアンとしてテレビに出演し、ユーチューブで人気を博する。人気はうなぎ登りで彼のスピーチは次第に人々に受け入れられて行く。このくだりがまず第一のハイライトである。

ヒトラーに扮した俳優が街に出て街角やインビス(軽食スタンド)やクナイペ(居酒屋)で市井の人々と話すシーンはアドリブでありドキュメンタリーなのだそうだ。ヒトラーがごくありふれた一般論で人々を促すだけで、人々はごく自然に政治に関する不満を話す。外国人や移民に対する敵意を露わにする。

ヒトラー自身が何か極端に排外的な意見を述べて先導しているのではない。彼はただ生活に関する不満を聴き出し、それに相槌を打って先を促すだけだ。それだけで人々からは驚くほど一面的で偏狭な民族主義的な言説があふれ出して来る。ヒトラーは誘導体だが、それによって発現する排外主義自体はもともと人々の中にあったものだ。

怖いのはその手法が現代においても有効であること、それに呼応し、それによって導き出されるものが今もなお多くのドイツ人の中にあることである。第二次世界大戦後のドイツは「ナチス的なるもの」を徹底的に排除することで国家のアイデンティティを確立してきた訳だが、実際にはそれは今も根深く国民の心性の奥深くに横たわっていることが示唆される。

これは、日本においてドイツの「過去への贖罪」を評価し、そこにひとつのロールモデルを見出そうとする人たちも考えるべき事実だと思う。グローバル化によって個人がむき出しの国際競争にさらされる結果、競争力のない個は拠りどころ、保護者を求めて内向きな主張に回帰する。アメリカのトランプ、イギリスのEU離脱、日本のネトウヨ、すべて同根だ。

ヒトラーはそうした人々の欲求に巧みに応えて行く。彼自身の言説はある意味曖昧で多義的なものであり、いかようにも解釈できるものである。それだけに聴衆はそこに自分の都合のいい指導者像を見出すことができる。彼の言論そのものがドイツ刑法130条に直接反している訳ではない。だれも反駁しようのない正論、一般論でヒトラーは人々の心に眠る排外主義を釣り出す。

見ている僕たち自身も彼の自信に満ちた受け答えや受容的態度に次第に共感し始める。その結果がどこに行き着いたかをよく知っているはずの僕たちでさえ、ヒトラーの弁舌に抗い難い魅力を感じざるを得ないことに気づく。柔らかなコメディの表層のすぐ奥にはそのような企てが隠されており、そして僕たちは「ヒトラーを笑っているのではなく、ヒトラーと一緒に笑っている」。

僕たちがハッと我に帰るのは、認知症にかかったユダヤ人の老婆が、ヒトラーを見て急に取り乱し、彼が彼女の家族にしたこと、つまりガス室に送って殺したことを告発するシークエンスだ。ここはこの映画の最大のヤマ場である。ここにおいて僕たちは第二次世界大戦の時にドイツで起こったことをようやく思い出すのだ。

映画には、ヒトラーに嫌悪を示し排除しようとする人たちの姿も描かれる。ドイツが戦後推し進めた教育、「戦う民主主義」の観点からは正しい態度だ。しかし、彼らはいかにも教条主義的で、建前的で、ひ弱に感じられる。少なくともその主張は魅力的には聞こえない。

もちろん演出的に敢えてそのように描いているのだろうが、そこには、つまり「政治的正しさ」より「分かりやすい粗雑さ」の方が説得力があるということには、真実の一端が確かにある。

映画の結末はオープンであり、この政治的寓話をどう受け入れるか、あるいは受け入れないかは僕たちに委ねられる。テロと移民と排外主義の時代に、僕たちはいかに正気を保つのか。ヒトラーが僕たちと異質な何かではなく、むしろ僕たちと極めて近しい何かであったということを知るのは絶対に必要だ。



Copyright Reserved
2016 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com