一応『太陽の帝国』の続編ということになっているのだが、「訳者あとがき」にもある通り、語りは一人称だし、冒頭の部分は『太陽の帝国』と時期的にもかぶっている。タイトル通り「女性遍歴」をモチーフに書かれたひとつの独立した自伝的小説と考えるべきもの。
もちろんここに書かれたすべてが事実という訳ではなく、より効果的に表現するための「仕掛け」はあるだろうが、この物語全体がバラードの実体験と深く結びつき、バラードが彼自身の生をどう受け止めているか、それがどうであって欲しかったと考えているかということのリアルなステートメントであることは間違いないだろう。
印象的なのは、バラードの世界観の根底に上海での生々しい戦争体験があるということだ。『太陽の帝国』ではそれがまだ幼い少年であったバラードに強く刷りこまれたかということが丁寧に書きこまれていたが、この作品では、それが長じてからも彼の行動を規定していたことが分かる。
バラードはおそらく、平和で穏やかなイギリスでの生活において、上海での体験に比肩できるような強烈な生の実感を求め続けたのではなかったか。それ故彼は、自分を取り巻く世界ではなく、彼自身の精神の内奥へと降り立ち、そこに息づく異形のものや血なまぐさいものの中に手がかりを求めたのではないだろうか。
『クラッシュ』や『残虐行為展覧会』に顕著に見られたケネディ暗殺や交通事故への傾倒が、彼自身がよりリアルな感情への探求を続け、現実世界の中にそれを見出そうとする中で必然的にたどり着いたひとつの里程標であったことも分かる。バラードはあるいは、自分の中に息づく危うい傾向を小説として汲み出すことで、精神的な平衡を保っていたのかもしれない。彼を現実につなぎとめていたモメントを、彼と関わった女性たちに仮託して描いたのがこの作品なのかもしれない。
終盤、『太陽の帝国』がスピルバーグによって映画化された時に撮影所を訪ねたり、そのプレミアムに招かれたりして、少年時代の記憶が強制的に映像化されて眼前に提示された時の描写は壮絶であるとともに、バラードにとってそれがある種の救済であったことも示唆される。
上海での強烈な体験に規定された「あらかじめ失われた世界」と戦後のイギリスでの「今ここにある常識人としての生活」の二重写し、ギャップが彼の執筆の最も基本的なダイナモであったとするなら、それはこの時に統合されたのか。それは彼が身を切るようにして『太陽の帝国』を書いたことの報酬であったのかもしれない。
バラードのメイン・ストリームの作品群を好む立場からは異質な作品だが、『太陽の帝国』と同様、そこにはそれらの作品の背後にいる一人の人間の呻吟がリアルに写し取られている。重要な作品だ。
|