logo JGB長編レビュー 太陽の帝国 / 女たちのやさしさ


ここでレビューする2編はSFではなく、バラードの自伝的作品とされる主流小説である。少年時代を第二次世界大戦前後の上海で過ごした経験を元に書かれた『太陽の帝国』は高く評価され、英国の文学賞候補にもなり、またスティーブン・スピルバーグによって映画化もされた。『女たちのやさしさ』はその続編とされている。

これらは他のSF作品とは成り立ちをいささか異にしているが、しかしそこにはバラードの作品に通底するある種の世界観が抜き難く、いやむしろ強烈に投影されており、SF作品を読んでからこれを読むと、すべての始まりはここにあったのだということがよく分かる。

一度読んだきり、レビューのための再読をする知的体力とでもいうものが絞り出せず長く放置していたが(それでも何度か読もうとはした)、ようやく手に取ることができたので遅くなったがレビューする次第である。

2018年10月


Empire Of The Sun 太陽の帝国 1984 (国書刊行会 高橋和久・訳)

1930年に上海で生まれ第二次世界大戦の終戦までをそこで過ごしたバラードの体験をベースにした自伝的小説。太平洋戦争の開始とともに上海は日本軍に占領され、敵国人である11歳の少年ジムは両親とはぐれて捕虜収容所に収監される。それを起点に、収容所での生活や、第二次世界大戦の終結によりジムが収容所から解放され、曲折を経て両親と再会するまでを描いている。

実際にはバラードは両親とともに収容所に入れられていたらしいが、収容所での体験を「純化」し、そこで彼が否応なく刷り込まれた世界観のようなものを正確に、生き生きと描き出すには、ジムを寄る辺のない存在にし、すべての出来ごとの「意味」を一人で背負うしかない状況に置くことが必要だったのだろう。

最初に一読した時の記憶では、収容所とはいえそれなりに余裕のある生活だったような印象だったが、今回再読すると、特に日本の敗色が濃厚となった1945年には収容所の生活も相当窮乏しており、ジムの生活も飢えや衛生状態の悪さ、医薬品の不足などで、かなり死と隣り合わせの限界に近い状況として描かれている。

ジムの周りでは捕虜も、日本兵も、撃墜された米軍機のパイロットも、そして本来ならその土地の人である中国人たちもバタバタと倒れ、殺され、次々と死んで行く。死体はそこらじゅうにあり、そこでは生と死との距離は限りなく近い。ジムは自分が、いや誰もが実は既に死んでいるのではないかとすら考えている。

言うまでもなく、こうした世界観、死生観は、この後バラードの作品を決定づけて行くものである。原因はさまざまであっても、バラードの描き出す物語の主人公が、いずれも自ら進んで生と死の混じり合った境界領域(辺土)に足を踏み入れ、その薄明の中に最も強烈な生の意味を知るような宿命的な傾向を持つのは、おそらくこの時期に形成されたバラード自身のそうした傾向のせいだ。

その意味でこの作品は、見かけはバラードの他の作品とはいささか趣を異にする「普通小説」でありしかも第二次世界大戦下の上海という特殊な状況を背景にしたリアリズム小説であるが、そこに描き出されているものは間違いなくバラードの他の「SF小説」と通底し、共鳴し合っているし、むしろこの作品こそバラードのすべての作品の最も根底にあるものだとすら言っていい。

水のないプールや打ち捨てられた廃屋、飛行機や飛翔することへの異常なまでの執着、飢え、病むことによって変容する肉体への興味と仮借ない描写。バラードの作品の見慣れた風景はすべてここにあったのであり、そしてそれらはまた我々の何不自由ない情報資本主義のすぐ裏側にも常に存在しているもので、その様相は些細なきっかけで容易に遷移するものだということをバラードはこの作品で書こうとしたのに違いない。
 

 
The Kindness Of Women 女たちのやさしさ 1991 (岩波書店 高橋和久・訳)

一応『太陽の帝国』の続編ということになっているのだが、「訳者あとがき」にもある通り、語りは一人称だし、冒頭の部分は『太陽の帝国』と時期的にもかぶっている。タイトル通り「女性遍歴」をモチーフに書かれたひとつの独立した自伝的小説と考えるべきもの。

もちろんここに書かれたすべてが事実という訳ではなく、より効果的に表現するための「仕掛け」はあるだろうが、この物語全体がバラードの実体験と深く結びつき、バラードが彼自身の生をどう受け止めているか、それがどうであって欲しかったと考えているかということのリアルなステートメントであることは間違いないだろう。

印象的なのは、バラードの世界観の根底に上海での生々しい戦争体験があるということだ。『太陽の帝国』ではそれがまだ幼い少年であったバラードに強く刷りこまれたかということが丁寧に書きこまれていたが、この作品では、それが長じてからも彼の行動を規定していたことが分かる。

バラードはおそらく、平和で穏やかなイギリスでの生活において、上海での体験に比肩できるような強烈な生の実感を求め続けたのではなかったか。それ故彼は、自分を取り巻く世界ではなく、彼自身の精神の内奥へと降り立ち、そこに息づく異形のものや血なまぐさいものの中に手がかりを求めたのではないだろうか。

『クラッシュ』や『残虐行為展覧会』に顕著に見られたケネディ暗殺や交通事故への傾倒が、彼自身がよりリアルな感情への探求を続け、現実世界の中にそれを見出そうとする中で必然的にたどり着いたひとつの里程標であったことも分かる。バラードはあるいは、自分の中に息づく危うい傾向を小説として汲み出すことで、精神的な平衡を保っていたのかもしれない。彼を現実につなぎとめていたモメントを、彼と関わった女性たちに仮託して描いたのがこの作品なのかもしれない。

終盤、『太陽の帝国』がスピルバーグによって映画化された時に撮影所を訪ねたり、そのプレミアムに招かれたりして、少年時代の記憶が強制的に映像化されて眼前に提示された時の描写は壮絶であるとともに、バラードにとってそれがある種の救済であったことも示唆される。

上海での強烈な体験に規定された「あらかじめ失われた世界」と戦後のイギリスでの「今ここにある常識人としての生活」の二重写し、ギャップが彼の執筆の最も基本的なダイナモであったとするなら、それはこの時に統合されたのか。それは彼が身を切るようにして『太陽の帝国』を書いたことの報酬であったのかもしれない。

バラードのメイン・ストリームの作品群を好む立場からは異質な作品だが、『太陽の帝国』と同様、そこにはそれらの作品の背後にいる一人の人間の呻吟がリアルに写し取られている。重要な作品だ。
 



Copyright Reserved
2018-2019 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com