logo JGB長編レビュー 2003-2006


ここでは21世紀に入ってから2009年に死亡するまでのJGBの作品2編をレビューする。快適な現代生活のイコンに宿る狂気、暴力への傾倒という意味ではこれらの作品はいずれも「殺す」以降、「コカイン・ナイト」、「スーパー・カンヌ」とも通底している。中産階級革命やショッピング・モール・ファシズムといった着想はJGBならではだが、いささかそこに使い回し感があるのも事実で、最初に「ハイ・ライズ」や「クラッシュ」を読んだときのような衝撃は正直ないと言っていいだろう。

だが、今のところ未訳であるこれらの作品を、原書ででも読もうとする価値があるとするなら、僕たちの精神の奥深くに眠る性衝動、暴力衝動がクリーンな現代社会の何と果たして共鳴し得るのかというテーマへのJGBのこだわりこそその中心だろう。管理されたニュー・タウンの専門職家庭、リゾートのスポーツ・クラブ、ビジネス・コンプレックスに続いて、JGBはいったいどこに現代的な暴力の萌芽を見出したのか、それを僕たちは追いかけなければならない。

なぜならそれは、JGBの妄想の中のできごとではなく、僕たち自身の中に存在するものだからだ。JGBはただそれを見つけ、白日の下に引きずり出したに過ぎないのだ。そこにおけるJGBの探求心は21世紀の今日においても唯一無二のものだったと言っていいだろう。


Millennium People 千年紀の民 2003 (東京創元社 増田まもる・訳)

心理学者のデビッド・マーカムはヒースロー空港の爆破事件で先妻ローラを亡くす。既に別れたはずの女性なのにその死はマーカムに大きなインパクトを与えた。マーカムはその事件の真相を探るため、様々なデモや集会に出かけて行く。そこでマーカムは「中産階級の解放」を掲げる奇妙な過激派と出会い、知らずに彼らに巻き込まれて行くのだった。

現代社会で最も搾取されているのは従順に働き続ける中産階級であると主張するカリスマ的な医師ゴードンと、彼の意を受けた女性ケイに扇動される形で中産階級向けの新興住宅地であるチェルシー・マリーナでは暴動が発生し、地区は封鎖される。警官隊との衝突の中でマーカムもまたその中産階級革命にコミットして行くことになる。

マーカムやゴードン医師、ケイだけでなく、中国人女性、謎の牧師など、登場人物の造形ははっきりしており、メリハリの効いた物語の運びも魅力的。何より中産階級革命という着想がいかにもバラードらしく、斬新でありながら僕たちの日常生活の中での苛立ちや不安を的確にヒットしているところがさすがだ。

暴力、セックス、過激派という道具立て自体はバラードにあっては格別目新しいものではないし、現代社会の歪んだ出口を示唆する作風は、「楽園への疾走」「コカイン・ナイト」「スーパー・カンヌ」などにも見られた最近のバラードの興味のあり方を再確認するもの。小ぎれいな新興住宅地での中産階級の崩壊という意味では「殺す」にも通じる不気味さがあるし、住宅地から住民が次々と脱出して行き、焼き討ちにあって荒廃して行くイメージは「ハイ・ライズ」を思い出させる。

更にいえば、破滅への大きな流れの中でなすすべもなくその一翼を担うこととなる男の醒めた諦観、「巻き込まれる」ことへのひそかな傾きは早くは初期三部作からバラードの作品に顕著に見られた傾向でもあった。それを考えればバラードの朽ちつつある世界を見る眼差しは初めから何も変わっていないということが分かるのではないだろうか。

物語の終盤で、ローラを殺した爆弾テロが実はゴードン医師の一派によって仕掛けられたものであることが示唆されるが、マーカムの態度は最後までどこか煮えきらない。自分の中のもう一人の自分がじっと破滅を見つめているような奇妙に静まり返った感じ、ある種の既視感のようなものが特徴的な作品。南の島やリゾートといった非日常空間から再び都市に回帰したことでバラードは新たなリアリティを獲得した。
 

 
Kingdom Come 2006 (本邦未訳)

遺作となった作品。ヒースロー空港とロンドンを結ぶ高速道路M25沿いに点在する郊外都市のひとつブルックランド、そこに建設された巨大なショッピング・モールである「メトロ・センター」で銃の乱射事件が発生した。この事件で疎遠にしていた父親を亡くした広告マン、リチャード・ピアスンは事件の真相を知るためにブルックランドに移り住む。しかし、犯人として逮捕された男はすぐに釈放されてしまう。いったいだれが父親を殺したのか。そしてブルックランドで何が起ころうとしているのか。物語は意外な方向に発展して行く。

小説の構造としては「コカイン・ナイト」や「スーパー・カンヌ」、前作「ミレニアム・ピープル」にも酷似している。ここで語られるのはスーパー・マーケットからホテルまでを擁する巨大なショッピング・モール「メトロ・センター」を核に形成されて行くファシズムだ。サッカーやアイス・ホッケーの試合が終わるたびに、セント・ジョージ旗のシャツを着たファンの一群がアジア人やスラブ人の商店を襲い、焼き討ちする。暴力的、排外的な騒乱の動因はショッピング・モールに象徴されるコンシューマリズムだった。

ショッピング・モールの店先に山積みされる商品が示唆する暴力。モールに設置されたスタジオから放送されるケーブル・テレビが扇動する略奪。現代的でクリーンなショッピング・モールが新しい種類のファシズムを育んで行く。ケーブル・テレビのパーソナリティであるデヴィッド・クルーズと手を組んで新たな広告戦略を仕掛けるピアスンは、いつしかショッピング・モール・ファシズムの先導者になってしまう。そして歯止めのない暴力はついに警官隊との衝突、モールへの籠城へとエスカレートして行くことになる。

既に前述のような作品を通り過ぎてきた読者としては正直「またか」と思う部分もないではない。しかし、そう分かっていても、アウトサイダーへの暴力がエスカレートして行くプロセスや、籠城中のモールの内部の描写は具体的、現実的でスリリングだ。籠城が長期化するに連れて荒れ果てて行くモールの描写は「ハイ・ライズ」を思い起こさせるし、ピアスンが衰弱しながらもモールに留まろうとする態度は「結晶世界」から「奇跡の大河」を経て現代に至るJGB作品の主人公に共通して見られる傾向のようにも思われる。

この物語でJGBが解放しようとしているのは、怪物化するコンシューマリズムだ。そこにおいてはメッセージがないことがメッセージだというJGBの見立ては、メディアがメッセージだと看破したマクルーハンにも似て、表層化する消費行動が生み出す余剰エネルギーの行き先の問題を小説的な角度から語ろうとしているのだろうと思う。陰湿化、粘着化するクレーマー、モンスター・ペアレンツ、電車内暴力…。僕たちの意識の深層でいつの間にか張り巡らされた性衝動と暴力衝動の意外な回路を見出すJGBの眼力は健在だ。
 



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