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フラニーとゾーイー
野崎孝 訳
1976 新潮社(新潮文庫)


■ フラニー
■ ゾーイー
 
フラニーとズーイ
村上春樹 訳
2014 新潮社(新潮文庫)


■ フラニー
■ ズーイ


1955年発表の「Franny」と1957年発表の「Zooey」の中編2編をひとつに合わせたもの。本国(アメリカ)では1961年に出版されている。

本邦ではやはり野崎孝による新潮文庫版が定番として長く読まれているが、2014年に村上春樹が新訳を出版している。このレビューを書いた2010年には村上訳がまだ世に出ておらず、最も手に入りやすかった野崎訳を底本としている。


Franny (1955)

これもまたグラス・サーガのひとつ、末の妹フラニーが週末を恋人と過ごすために彼の待つ駅に降り立つところから物語は始まる。分量的には短編と呼ぶべき作品だ。フラニーは恋人のレーンと落ち合い、その案内でレストランに赴く。食事の後、彼の大学のフットボールの試合を見に行き、その後は二人で楽しもうという計画である。レーンは罪のない気取り屋の大学生として描かれる。彼の自意識は我々の目からは健康的なものに見える。

だれだって恋人と週末を過ごす大学生であれば、自分のことをひとかどに見せたいという自意識くらいある。あやふやな知識をひけらかしたりもする。だがこの日のフラニーはいちいちレーンにかみつくのである。彼女にはそんな自分の周囲の人たちのささやかなエゴが許せないのだ。ここでのフラニーの鋭敏さ、ナイーブさはホールデンにも似ている。だが、ここで特徴的なのは、その切っ先が自らのエゴにも向けられて行くところだろう。

フラニーはそのようにレーンに食ってかかる自分を幾度となく嫌悪し、謝罪するのだが、やがてまた誰彼のエゴにイライラを募らせる。そして最後にはレストランで気を失ってしまう。二人の週末は台無しである。このとき彼女は「巡礼の書」という一冊の小さな宗教書を持っている。そこには「絶えず祈る」ということの意味について、祈りの自動性についての記述がある。念仏である。彼女はその考えにとりつかれ、夢中になっているのだ。

そんな彼女と、健全なアイヴィ・リーガーであるレーンの会話がかみ合う訳もない。この物語は2年後に発表される(そして本作とセットで単行本となる)中編「ゾーイー」の導入となる作品である。ここで読者はフラニーの、いかにも女子大生らしい稚気と、しかしまたグラス家の宿命的な系譜に連なる者として真理を求める懊悩との二重拘束を見る。そしてそれを描き出すサリンジャーの筆致はあまりに見事だ。短いが鮮烈な印象の作品。

Zooey (1957)

私見ではサリンジャーの作品の中で最も重要かつ決定的なもの。レーンとの散々な週末の後、フラニーは実家に帰り一人ふさぎ込んでいる。5つ違いの兄であるゾーイーが何とかフラニーの心を開かせようと語りかける。物語の大半はそのゾーイーとフラニー、あるいは母親のべシーとの会話に費やされる。ゾーイーの饒舌でシニカル、皮肉っぽい語り口は時として冗長にすら感じられるが、それこそがこの物語の基調であることは疑いがない。

まずは入浴中のゾーイーと、フラニーを何とかして欲しいと頼む母親のベシーとの会話が延々と繰り広げられる。物語のリズムはここであらかた決定され、あとはひとりでに流れ出す。ゾーイーはフラニーに話しかけるが失敗してしまう。フラニーは自らのエゴにこそ深く傷つき、戸惑っているのだ。ゾーイーは撤退し、室内電話を介してリターン・マッチを挑む。そして物語は圧倒的でたたみかけるようなラストへ向かって自然と動き始める。

ゾーイーは言う。「神に捧げられたいっぱいのチキン・スープが鼻先に置かれてもそれと気がつかないというのに、本物の信心家を一体どうやって識別するつもりなんだ?」。そしてかつてシーモアに教えられた「太っちょのオバサマ」の話を持ち出す。みすぼらしく、無教養で、不幸せな、だれでもなく名前もない中年女性、しかし彼女のためにこそ我々はよく生きなければならないのだと。ここに至ってフラニーは何かを知るのである。

ゾーイーは続ける。「そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ」「それから――よく聴いてくれよ――この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、(中略)それはキリストなんだ。キリストその人に他ならないんだよ」。僕たちは知っている、それはキリストであり、もはやキリストですらないのだと。この凝縮された認識こそグラス・サーガの、サリンジャーという作家の本質だと思う。



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