logo The Catcher in the Rye


ライ麦畑でつかまえて
野崎孝 訳
1964 白水社

 
キャッチャー・イン・ザ・ライ
村上春樹 訳
2003 白水社


サリンジャーが遺した唯一の長編であり、代表作として最も知られた作品でもある。我が国では野崎孝による訳が邦題「ライ麦畑でつかまえて」とともに長くポピュラーであったが、2003年に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のタイトルで村上春樹による新訳が刊行されている。ここでは村上訳をもとにレビューした。


Catcher In The Rye (1951)

この作品は確かにイノセンスを扱っている。だが、これは決して十代の少年の成長物語ではない。ホールデンは徹頭徹尾終始一貫して成長せず、むしろ成長を積極的に拒絶しているように見える。彼の(そしておそらくサリンジャーの)深層には、現実や成長に対する強迫観念に近い嫌悪と恐怖があり、それは何らかの形で折り合いをつけることのできない決定的なものである。そこにあり得るのは現実に対する徹底した闘争の物語だけなのだ。

ホールデンは周囲のありとあらゆるインチキを唾棄する。しかし、彼の態度はそれに相応しいほどタフでもクールでもない。宿泊するホテルで娼婦を買いながらいざとなると怖じ気づく挿話は、彼が現実や成長に病的な嫌悪と恐怖を抱いていることをよく表している。セックスはその象徴だ。そして彼は娼婦のヒモに腕をねじ上げられ、カネを巻き上げられて泣き出してしまう。僕の目には彼は純粋というより小心なお調子者に見えてしまう。

そう、ホールデンのうちにあるのはイノセンスそのものではなく、イノセンスへのエキセントリックな憧れである。彼はもはや子供ではない。それが分かっているからこそ彼は妹のイノセンスの守護者になりたいと願う。彼に(そしておそらくサリンジャーに)とってイノセンスとは、時間の経過とともにタフな現実認識へと昇華されるべきものではなく、真空パックのようにいつまでもフレッシュなままそこになければならないものなのだ。

だからこれは「ブリキの太鼓」のように成長を拒絶したいびつでグロテスクな物語である。だが、それでもこの物語が僕たちのどこかを打つのなら、それは僕たち自身が小心なお調子者であり、僕たちの成長そのものがいびつでグロテスクだからだ。ホールデンは僕たちの現実や成長に対する嫌悪と恐怖を僕たちに代わって引き受け、敗色濃厚な闘争を続けているのだ。これはパンクであり、彼の姿はシド・ヴィシャスにも似ているではないか。



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