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The Young Folks 若者たち (1940) 訳:渥美昭夫

若者たちの集まったパーティでの男女、エドナとジェイムソンの会話を描く。「大きな鼻と、しまりのない口と、細い肩」のジェイムソンはエドナと話しながらも他のブロンドの女の子が気になって気のない返事を繰り返し、揚句に課題が残っているとか何とか適当なことを言ってエドナの傍を離れブロンドを囲む男たちの末席に加わる。爪を噛んだり、親指のささくれをむしったり、ジェイムソンは徹底して鈍感な男として描かれている。
よく読んでみればエドナだって別に大したことをジェイムソンに語りかけている訳でもないのだが、ジェイムソンがあまりにさえない凡庸な男であるために、読者はエドナのやりきれなさを共有することになる。主題としてはどうということのない、ひとつの情景描写のような作品だが、その描写が抑制的でありながら的確であるおかげで、参加したこともない1930年代アメリカの学生パーティのざわめきまでがはっきりと聞こえてくるようだ。

Go See Eddie 「エディーに会いな」 (1940) 訳:渥美昭夫

エディーにコーラス・ガールの仕事をもらいに行くようにと妹に指図する兄とその妹との会話を描いた作品。世間体を気にして口うるさい兄と自分に正直でまっすぐな妹のやり取りのように見えながら、妹が実は男にだらしのない女であったことが最後に明かされる物語とも読める。ここでも、兄と妹の自然な会話とかちょっとした仕草や小道具の描写で、まるで映画の一場面みたいな情景が鮮やかに立ち上がってくるのは驚くべきことだ。
落ちを踏まえて読み返せば、何人もの男と浮き名を流しながら兄に対しては達者に口答えをして見せる妹ヘレンのしたたかさが印象的だ。罪のないコメディのようなワンシーンを切り取りながら、その背後にあり得る物語の広がりをも感じさせる筆力の達者さは若きサリンジャーの非凡な才能を思わせる。作品自体としてはあくまで初期の習作、素描にとどまるが、この作家が生来的に身につけている洗練の筋の良さを感じさせる小品である。

The Hang Of It 「じき要領をおぼえます」 (1941) 訳:渥美昭夫

覚えが悪くいつもへまばかりしている新兵の物語。語り手の息子が徴兵されたことから、語り手はかつての間抜けな新兵のことを語り始める。その新兵ペティットは軍曹の指示をことごとくやり損なう。軍曹に罵倒されたペティットは繰り返す。「じき要領をおぼえます」。そしてこう付け加える。「じきにのみこみます。嘘じゃありませんよ。本当にぼく軍隊がだいすきなんです。いつか大佐かなにかになってみせます。嘘じゃありません」。
物語は現在に戻る。語り手の息子は当時のペティットを思わせる間抜けだ。そして彼を教育しているのはペティットを罵倒していたのと同じ古参軍曹であることが示唆される。さらに、物語の最終盤で、語り手が大佐であることも示され、要は語り手自身がペティットであったという結末になっている。O・ヘンリー的に落ちのついたショート・ショートであるが、アイデアはありきたりで、それ以上でもそれ以下でもない、凡庸な作品である。

The Heart Of A Broken Story できそこないのラヴ・ロマンス (1941) 訳:渥美昭夫

ホーゲンシュラークなる31歳の印刷工がシャーリーという魅力的なヒロインと巡り会うラブ・ロマンスをいかにしたら構築できるかという作家のストーリー・テリングの内幕を皮肉っぽく書きつけた「反小説」。巷にあふれるラブ・ロマンスのあまりにご都合主義的で不自然な描写を揶揄しながら、さまざまな出会いのパターンを示しては、あれもダメ、これもダメ、だから私はラブ・ロマンスが書けなかった、と結ぶある意味楽屋落ちの作品。
「これがわたしがコリヤーズ誌のためにラヴ・ロマンスを書けなかった次第である。ラヴ・ロマンスにあっては、男が女に会うことがつねに必要なことだからである」というのがサリンジャーの言い分で、解説によれば「コリヤーズ」とは上述のようなO・ヘンリー的ショート・ショートを中心に掲載していた雑誌らしい。本作自体は「エスクワイア」に発表されたもののようだ。技巧としては面白いが作品としてはどうということのないもの。

The Long Debut Of Lois Taggett ルイス・タゲットのデビュー (1942) 訳:渥美昭夫

ルイス・タゲットという世間知らずのお嬢様が学校を卒業し、見栄えのいい男との最初の結婚に失敗した後、パッとしない男と再婚し、曲折を経て人間的な成長を果たすという物語。ルイスがその浅はかさ故に財産目当てのハンサムだが愚かな男と結婚する下り、またその男がふとしたことから急にルイスを愛おしく感じ始め二人の間に束の間の蜜月が訪れる下り、あるいはその蜜月が脆くも終わりを告げるエピソード、どれもが鮮烈だ。
ルイスはその後、実直だが背が低く太った男と再婚するが、彼を本当には愛していない。だが、彼女は子供を6カ月で亡くして変わる。彼女は相変わらず彼を愛していないが、彼のありようを許し、受け入れたことをサリンジャーは示唆する。それは彼女がようやく世界というものを知り、許し、受け入れたことを意味するのだろう。ほとんどエピソードだけでドライブしながら、生というもののせつない本質を鮮やかに描き出した作品。

Personal Notes On An Infantryman ある歩兵に関する個人的なおぼえがき (1942) 訳:渥美昭夫

『The Hang Of It』と同様、落ちのついた掌編であり、やはり世相を映じてか軍隊でのエピソードとなっている。陸軍の歩兵部隊で事務を務めている語り手の元に入隊希望者がやってくる。名はロウラー。彼は40代半ばで軍需工場の技師長をしているのだという。新兵には明らかに年かさすぎる。「私」は入隊を思いとどまるようそれとなくロウラーに促すが彼は聞かない。ロウラーの妻からも電話がかかってくるが、結局ロウラーは入隊する。
彼は優秀な新兵になり、最終的に外地に送られて行く。そして最後に、ロウラーが「私」の父親であり、ロウラーの妻が(当然だが)「私」の母親であることが明かされる。だから「私」はロウラーを入隊させたくなかったのだし外地に送りたくもなかったのだ。苦労の後は窺えるがいかにも取ってつけたような話であり、サリンジャーの作品としてはもとより、このタイプのショートショートとしての出来もよくなく、顧みるに値しない作品。

The Vorioni Brothers ヴォリオーニ兄弟 (1943) 訳:渥美昭夫

天才的な作曲家である兄と、同様に天才的な物書きの弟の物語。弟は大学で教鞭を執りつつ小説を書いているが、兄の作品が認められたとき作詞家として兄とともにデビューする。やがて弟は自分の作品を書くため兄から離れようとするが兄が彼の才能を手放そうとしなかったために果たせず、あるとき兄と間違われ殺されてしまう。真面目な弟に対して兄は放蕩であり、博打の借りを返していないためにヤクザ者から狙われていたのだった。
物語は、弟を殺されてすっかり消沈した兄が、世間から姿を消し、弟がさまざまな紙の切れ端に書き残した物語をひとつにまとめるという迂遠な作業に半生を捧げるという形で収束している。しかし、サリンジャーがそこで書きたかったのは、兄の贖罪の物語よりは、世俗なるものが純粋な結晶のような才能、無垢な輝きを暴力的に損なって行くプロセスの方ではないだろうか。初期短編の中でも間違いなく最も重要な作品のひとつである。

Both Parties Concerned 二人で愛し合うならば (1944) 訳:渥美昭夫

ビリーとルーシーという若い夫婦の痴話喧嘩を題材とした物語で、ビリーの視点からくだけた調子で語られる形式になっている。二人はどちらも未熟な若者で、考えが一面的である上、互いの心情に対する省察も欠けているために(まあ、若いときには当たり前なのだが)すぐにすれ違ってしまう。ビリーとルーシーが二人でクラブに出かけるが些細な行き違いから諍いになり、ルーシーのご機嫌を損ねてしまう下りの描写なんかは見事だ。
若さゆえの浅薄さから発するコミュニケーション・ブレイクダウンを描くという意味では、中期以降のサリンジャーの重要な作品群とも共通するモチーフを扱っているようにも思えるが、この作品がその域に達していないのは、語り手であるビリーに、例えば後のホールデン・コールフィールドのような、浅薄さを埋め合わせて余りある若さ故の美質、端的に言えばイノセンスが見出せず、ただ考えの足りない若者にしか見えないからだろう。

Soft Boiled Sergeant やさしい軍曹 (1944) 訳:渥美昭夫

語り手のフィリーが軍隊で出会った「やさしい軍曹」のことを回顧するという物語。軍曹はバークさんという名で、新兵として入隊しベッドに腰かけて心細さに涙していた16歳のフィリーにバークさんが声をかけたエピソードだ。バークさんは若きフィリーに大事な勲章を見せてくれる。見せてくれるだけではない、それをつけてみろという。そしてそれをしばらく貸してくれる。そのようにしてフィリーは何とか軍隊への入口を通過できた。
やがて転属でフィリーはバークさんと別れる。そして何年かしてバークさんが真珠湾で戦死したことを知る。それは英雄的な死に方だった。「バークさんみたいなひとは、一生涯えらい人間で、――本当にえらい人間でありながら、せいぜい二十人か三十人くらいの男しか、そのことに気がつかないんだ」。人知れず存在する美しさと、それが直面する困難さについて描こうと試みた点では重要だが、技法が追いつかず感傷に流れたのが残念。

Last Day Of The Last Furlough 最後の休暇の最後の日 (1944) 訳:渥美昭夫

ホールデン・コールフィールドの名が初めて登場する作品であるが、それ以上にサリンジャー作品の重要なモメントであるイノセントへのはっきりとした言及が重要な物語。戦時下の暗い世相を背景に、賜暇を終えて部隊に戻ろうとする若い兵士が自宅で過ごす最後の夜のことを描いている。主人公のベーブが戦争について父親に意見をする下りがあり、それも重要なステートメントだが、僕の見るところこの作品のキモは別のところにある。
それは間もなく部隊に戻らねばならない主人公が年若い妹を学校まで迎えに行くエピソードだ。幼い妹、女の子のイメージはサリンジャー作品にあって重要な意味を持つ。彼女らは一方でイノセンスを代表するとともに、それがいずれ成長とともに試練に直面することを象徴してもいる。そうした束の間の無垢な輝きを彼女らに仮託して描かずにいられないサリンジャーの、純粋なるものへの憧れ、傾きが素直に表れた、切なくも美しい作品。

Once A Week Won't Kill You 週一回なら参らない (1944) 訳:刈田元司

これから戦地に赴く男性が、後に残して行く妻と面倒を見ている叔母に最後の別れを告げるエピソード。戦争が外地で戦われており、アメリカ本土の平和な生活は見かけの上では何も変わらない。そのために、実際に外地で戦う男性と、銃後を守る女性との間には大きな意識のギャップがあり、それが逆に当時のアメリカ人の精神に深刻な危機をもたらしたであろうことがはっきり読み取れる作品である。軽いタッチだがトーンは重苦しい。
後を託す妻に、叔母を週に一度は映画に連れて行ってくれと男性は何度も念を押す。「それくらいなら参らないよ」。「参るってだれが言いましたか? わたし参るって言ったことあって?」と妻は言う。叔母は変わりつつある世相の中で自分を取り巻く物事を以前のまま留めておくのに執心しているように見える。前後の説明もないワンシーンを描くだけで戦争がいかに登場人物に暗い影を落としているかをはっきり分からせる秀逸な作品。

A Boy In France フランスのアメリカ兵 (1945) 訳:刈田元司

『Last Day Of The Last Furlough』の主人公であったベーブがいよいよ実際に戦地に赴き、戦闘の合間、塹壕の中で眠る一夜の情景を切り取った短い作品である。主人公がベーブであることは直接には示されないが、登場人物や周辺事情、性格描写などからそう考えて差し支えないだろう。彼はフランスで戦闘に従事しており、今、適当な塹壕を探して一夜の眠りにつこうとしている。そしてくしゃくしゃになった母からの手紙を読み返す。
ここにはおそらくサリンジャー自身の軍経験が直接反映されていることだろう。彼もまた第二次世界大戦末期のヨーロッパ大陸で、アメリカ軍の一員として熾烈な対独戦を戦った経験を持つからだ。そしてここでの、決して主人公である少年兵の心情を語らないリアルな描写が、逆にサリンジャーが戦争から受けた衝撃をはっきり示しているように僕には思える。極限状態におけるイノセンスの在処を淡々と描ききった一級の戦争小説である。

Elaine イレーヌ (1945) 訳:刈田元司

アウト・オブ・タッチな母親と祖母に育てられた頭の弱い少女の物語。彼女はとびきりの美人だが、いかんせん、学校の勉強と同じように世の中を生きて行くためのいろいろな機微を理解することができない。彼女の日常は、やはり世間から外れた生活を送る母親や祖母とともに映画館に通うことで成り立っている。この辺は『Once A Week Won't Kill You』に出てくる、現実への適応能力を失った叔母のエピソードを思い起こさせもする。
ストーリーは、彼女が何年もかかって学校を卒業し、映画館で知り合った男性と初めてのデートをして彼との結婚式にまで至るが、式の席上で母親が新郎の母親と諍いを起こして結婚は破談となり、結局彼らは映画館に戻って行くという他愛のないもの。しかしここに何か人間存在の本質の一端を垣間見たような深い感興が残るのは、サリンジャーの人間観察の注意深さとその描写の見事さによるものだろう。おかしくももの悲しい作品である。

This Sandwich Has No Mayonnaise マヨネーズぬきのサンドイッチ (1945) 訳:刈田元司

『Last Day Of The Last Furlough』に登場したヴィンセント・コールフィールドの軍隊生活での一幕を描いた作品。ヴィンセントはのちに『ライ麦畑』の主人公として登場するホールデン・コールフィールドの兄であり、ここではホールデンは行方不明になっている。ヴィンセントはそのことを気にかけながらも、軍生活における些事に不可避的に巻き込まれ消耗を余儀なくされている。もちろん、軍隊とは、戦争とはそういうものなのだ。
ヴィンセントは部下たちを慰問ダンス・パーティに連れて行く途中である。しかし手違いで予定より多くの兵が集まってしまった。パートナーの数が決まっているので4人は連れて行けない。ここでは軍隊生活がどのような種類の消耗を強いるのか、そしてそれがいかに個人というものを圧迫するのかが鮮やかに描かれている。行方不明の弟に「冗談はやめてくれ」とヴィンセントが呼びかけるラストは、確実にある種の絶望を喚起する。

The Stranger 他人行儀 (1945) 訳:刈田元司

これも『Last Day Of The Last Furlough』に連なる作品。ここでは視点は再びベーブ・グラドウォーラーに戻る。復員した彼は、ヴィンセント・コールフィールドが戦死した時の状況を伝えるために彼の元の恋人を訪ねる。そしてヴィンセントが臼砲に当たって死んだことを話し、ヴィンセントが封筒に書きつけた詩を彼女に渡す。訪問は気まずく、物語は陰鬱だ。ベーブの訪問が正しいことだったのかは、彼にも、読者にも分からない。
この物語で注目するべきなのはベーブが訪問に妹のマティを同伴していることだ。いうまでもなくマティの存在は暗い戦争の前後を通してそこに保存されているべきある種の希望とかイノセンスを象徴している。この、暗く、救いのない物語は、戦争というものがいかにサリンジャーを痛めつけたかということを示すとともに、しかしサリンジャーが、だからこそそこに救いのしるしを書き込まずにはいられなかったことをも示しているのだ。

I'm Crazy 気ちがいのぼく (1945) 訳:刈田元司

『Last Day Of The Last Furlough』以降の一連の作品に登場したヴィンセント・コールフィールドの弟、ホールデンが一人称で語る作品である。いうまでもなくホールデンは『ライ麦畑』の主人公であり、この作品は『ライ麦畑』に収められたエピソードの原型である。放校されたホールデンはスペンサー先生に別れを告げたあと、親の目を盗んで家に戻り妹に会う。そして父が命じる「事務所」の仕事に就かされることを予感する。
ここでのホールデンは『ライ麦畑』ほど造形もはっきりしておらず、物語もまだ内在的な力でドライブできるほど強くはない。「ほかの人はみな正しくて、ぼくだけがまちがっているのだということはわかっていた」。しかし、どう見てもインチキにしか見えない大人たちの世界に取りこまれることへの恐怖、強烈なイノセントへの希求、その象徴としての幼い妹といった『ライ麦畑』の基本的な世界観はここに出揃っている。力のある習作だ。



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