logo 神の子どもたちはみな踊る


「地震のあとで」と題して「新潮」に掲載された5編の連作短編に書き下ろしを加えた短編集。1995年の阪神大震災をテーマにした作品ばかりであるが、それぞれの作品の間に直接の関連はない。

あの地震がなぜ文学作品のテーマとして意味を持ち得るのかといえば、それによって、僕たちが何の根拠もなくそこにあって当然だと思っていた風景が一瞬にして崩れ去ったからだ。僕たちが知らない間に依存し、依拠している日常の連続性が、まったくの理不尽なできごとによって跡形もなくたたき壊されてしまう。そしてそのような取り返しのつかない出来事が起こって初めて、僕たちはその連続性がもともと何の保証もない勝手な思いこみに過ぎなかったことを知るのだ。

この認識は同じ年に起こったオウム真理教の地下鉄サリン事件、そして2001年の同時多発テロによって繰り返され、僕たちの精神に大きな危機を招くことになった。なぜなら、僕たちは僕たちが立つ場所がもはや確かでないことを知ってしまったからだ。村上は「アンダーグラウンド」と「約束された場所で」で地下鉄サリン事件にも深くコミットしているが、村上自身も言うとおり、それまでデタッチメントを基調としていた創作態度が、この時期コミットメントへと大きく転換をとげた背景には、そのような精神の危機、どんなことでも起こり得るのだという認識があったのだと思う。

したがって、ここに収められた作品も、地震そのものを描写したものではなく、地震のニュースを見た人たちの心の中で何が起こったのかということをテーマにしている。彼らの心の中で何が崩れ落ち、何がたたき壊され、そしてそこで、もし仮にあり得るとするなら、何が再生されたのかということを。

しかし、ここにその再生の物語を見出すことは難しい。中心になるのはあくまでテレビに映し出された無惨な被災地の風景と呼応し、共振した僕たちの心の中の寒々とした廃墟のことだ。僕たちの中で崩れ去った確信のことだ。確かなものなど何もなかったのだという事実を突きつけられたとき、僕たちの心の中で何が起こったかということなのだ。最後に「蜂蜜パイ」が書き下ろしで追加されなければ、この短編集の読後感はもっと厳しいものになっていたのかもしれない。

UFOが釧路に降りる

妻に出奔された男が、北海道へ小旅行を試み、そこで奇妙な女性たちと出会うというストーリー。彼の妻は地震の後、朝から晩までテレビでニュースを見続けていた。そしてある日突然実家に帰ってしまった。「いくら待ったところで、いくら考えたところで、ものごとはもう元には戻らないだろう。彼にはそれがよくわかった」。
ここには既にこの短編集、この連作の最も重要な主題が表れている。一度たたき壊されたものはもう二度と元には戻らないのだという認識。たとえ建物が修復され、交通網やインフラが再建されても、それぞれの胸の中で失われた自明性への楽観的で無根拠な信頼は取り戻せないのだということだろう。
その後、彼は同僚から荷物を託され休暇を兼ねて北海道へ渡る。そこで同僚の妹とその友人に会う。妹の友人が、彼の「中身」は彼が運んできた荷物の中に入っていてそれはもう失われてしまったのだ、だから彼はもはや空っぽなのだと戯れに告げたとき、「一瞬のことだけれど、小村は自分が圧倒的な暴力の瀬戸際に立っていることに思い当たった」。
依拠していたものが崩れ去ったとき、人は自らの心の中に広がる闇の領域を経験するのかもしれない。そしてそれは常に性や暴力、死と密接に結びついているのだ。

アイロンのある風景

高校の途中で家出し茨城県の小さな街でサーファーと暮らす順子が、年輩の男性が海岸で燃やす焚き火を見に行くというストーリー。流木で焚き火を燃やす三宅は神戸出身の画家だというが、順子が訊いても詳しいことは答えない。
焚き火は自由であり見る人の心を移すのだと三宅は言う。そして、「予感というのはな、ある場合には一種の身代わりなんや。ある場合にはな、その差し替えは現実をはるかに超えて生々しいものなんや。それが予感という行為のいちばん怖いところなんや」と。
ここにあるのも僕たちの内面にある深い闇との対峙であり、そこに広がる荒れ野のような空虚の認識であり、そして濃密な死の予感である。「私はこの人と一緒に生きることはできないだろうと順子は思った。私がこの人の心の中に入っていくことはできそうにないから。でも一緒に死ぬことならできるかもしれない」。
順子と三宅は焚き火が消えたら一緒に死ぬことを約束し合う。それはひとときの気休めとしての戯れにも見えるし、死への本質的な傾きを確認した真剣なもののようにも思える。しかしそれはどうでもいい。そこに死があることを認識した瞬間に、あるいはそれを口に出した瞬間に、人はもう死に始めているのだから。

神の子どもたちはみな踊る

ある新興宗教団体で「神の子」として育てられた青年が、雑踏で父親らしい男を見つけ後を追うというストーリー。青年の母親は厳格な避妊にもかかわらず幾度も妊娠しついに彼を生んだ。彼女はそれを契機にその宗教に入信し、彼は神の子とされることになった。彼は父親を知らず、今は信仰を捨ててサラリーマンとして暮らしている。「いちばん根本の部分で、善也を決定的に信仰から遠ざけたのは、父なるものの限りない冷ややかさだった。暗くて重い、沈黙する石の心だった」。
今、彼は母から聞いていた父親の特徴に一致する男を雑踏で見かけその後を追う。しかし男は彼をどこかの街の野球のグラウンドに導いて姿を消してしまう。「善也の魂は今では、静かに晴れ渡ったひとつの時間とひとつの場所にたたずんでいた。その男が自分の実の父親であろうが、神様であろうが、あるいはたまたまどこかで右の耳たぶをなくしただけの無縁の他人であろうが、それはもうどうでもいいことだった。そこには既にひとつの顕現があり、秘蹟があったのだ。誉むべきかな」。
彼はそこで踊る。踊るうち彼はリズムの自動性と自然に共鳴して行く。「彼は要所要所で、それらの複雑な絡み合いを見渡すことができた。様々な動物がだまし絵のように森の中にひそんでいた。中には見たこともないような恐ろしげな獣も混じっていた。彼はやがてその森を通り抜けて行くことになるだろう。でも恐怖はなかった。だってそれは僕自身の中にある森なのだ。僕自身をかたちづくっている森なのだ。僕自身が抱えている獣なのだ」。
地球が地震の巣をその一部として抱えているように、僕たちもまた深い闇をその一部として抱えている。僕たちはみんな神の子であり、神の子どもたちはみな踊るのだ。村上が「神」に言及した珍しい作品だが、そこで措定される神は結局村上の世界観そのものであり、そしてまたそれこそが僕たちを村上の作品に向かわせる最も重要なモメントなのだ。「赦し」や「救い」を強く感じさせる作品。

タイランド

専門医のさつきがタイでの休暇をアテンドしたニミットという運転手と不思議な交流を持つというストーリー。さつきの一週間の休暇を控えめに、忠実にアテンドした後で、ニミットはさつきにある場所に一緒に来て欲しいと言う。それは「夢を予言する」老婆のところだった。
そこで老婆はさつきに、あなたの身体の中に石が入っていると言われる。「それは古いものなので、あなたはきっと長年にわたってそれを抱えて生きてきたのでしょう。あなたはその石をどこかに捨てなくてはなりません。そうしないと死んで焼かれたあとにも、石だけが残ります」と。さつきには生まれなかった子供があり、30年間憎み続けた男があった。「男が苦悶にもだえて死ぬことを求めた。そのためには心の底では地震さえをも望んだ。ある意味では、あの地震を引き起こしたのは私だったのだ」。
なぜ自分を老婆の元へ連れていったのかと問うさつきにニミットはこう答える。「あなたは美しい方です、ドクター。(中略)でもいつも心をひきずっておられるように見える。これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。(中略)生きることと死ぬることとは、ある意味では等価なのです、ドクター」。
別れ際、今までだれにも告げなかった秘密を語ろうとするさつきをニミットは静かに制止する。「あなたのお気持ちはわかりますが、いったん言葉にしてしまうと、それは嘘になります」、「言葉をお捨てなさい。言葉は石になります」。
だれもが心の奥深くに沈潜させる暗い感情。それを押し殺して生きることの代償、所詮はだれとも共有でき得ない孤独の本質、そして生の内にあらかじめ含まれる死の姿について、残酷なまでに明確な輪郭で描き出した作品。

かえるくん、東京を救う

信用金庫に勤めるさえないサラリーマンである片桐の元にある日突然巨大な蛙が現れ、一緒に地震から東京を救うことになるというストーリー。地下で気持ちよく眠っていた「みみずくん」が神戸の地震で目を覚まされ、その怒りにまかせて東京に大地震を起こそうとしている、それを阻止できるのは片桐だけだと、その「かえるくん」は言うのだ。
片桐が銃撃される幻覚を見て昏倒している間にみみずくんとの闘いは行われる。病院で横たわる片桐の枕元にかえるくんが現れて戦果を報告する。かえるくんは何とかみみずくんとの闘いを引き分けに持ちこみ、東京を地震から救ったのだ。
「いずれにせよ、すべての激しい闘いは想像力の中でおこなわれました。それこそがぼくらの戦場です。ぼくらはそこで勝ち、そこで破れます。(中略)誰も気づいていませんが、ぼくらはそれを達成したのです」とかえるくんはいう。「目に見えるものが本当のものとはかぎりません。ぼくの敵はぼく自身の中のぼくでもあります。ぼく自身の中に非ぼくがいます」。そしてかえるくんは無惨な姿へと崩壊して行く。
僕たちの当たり前の日常生活の隣りに、あるいは僕たちが立っている地面の下に、想像もつかないような闇があり、そこでだれも知らない間に激しい闘争がおこなわれている。僕たちの毎日が取り敢えず平穏であったとしても、それはそのような人知れぬ無言の闘争の結果、ほんのわずかの僥倖でたまたま保たれている仮りそめの平穏に過ぎない。そしてその闇は結局のところ僕たちの心の中の闇とそのままつながっている。そのような闘争は僕たち自身の中で闘われている。
かえるくんがおぞましい虫の巣と化して朽ち果てる結末は何を暗示しているのか。それはとりもなおさず僕たち自身がそのようなおぞましい虫の巣窟に他ならないということだ。しかし、僕はこの物語を、自らが虫の巣窟に帰すると知りながら、それでも東京を地震から救うべく死力を尽くして闘ったかえるくんの英雄譚として読みたい。なぜなら、僕もかえるくんのことが「誰よりも」好きだからだ。

蜂蜜パイ

作家の淳平が大学時代からの友人である小夜子に求婚することを決意するというストーリー。小夜子は大学時代に仲がよかった高槻と一度は結婚するが、高槻は他に恋人を作って小夜子とは離婚してしまう。淳平とも仲のよかった高槻は淳平に小夜子と結婚するように勧めるが淳平は踏み切れない。
淳平は、小夜子と高槻の娘である沙羅に熊のまさきちととんきちの話を語って聞かせる。しかしその物語はなぜか悲劇的な結末に導かれてしまう。「『もっとうまいやり方はなかったの? みんなが幸福に暮らしましたというような』と小夜子があとで尋ねた。『まだ思いつかないんだ』と淳平は言った」。
淳平は地震の後、はるか昔に捨てた故郷である神戸のことを思う。「その巨大で致死的な災害は、彼の生活の様相を静かに、しかし足もとから変化させてしまったようだった。淳平はこれまでにない深い孤絶を感じた。根というものがないのだ、と彼は思った。どこにも結びついていない」。
沙羅もまた地震以来悪夢を見るようになる。地震男が自分を狭い箱に閉じこめにくると言うのだ。沙羅だけではない、「みんなのために箱のふたを開けて待っている」のだと。その言葉は淳平の心の奥深く響く。だが、眠りについた小夜子と沙羅を見守るうち、淳平は小夜子に求婚することを決意する。そして淳平の中でまさきちととんきちの物語は次第に別のかたちを取り始める。
「でも今はとりあえずここにいて、二人の女を護らなくてはならない。相手が誰であろうと、わけのわからない箱に入れさせたりはしない。たとえ空が落ちてきても、大地が音を立てて裂けても」。
淳平の心を打ったものが何なのか、ここでは明らかにされない。淳平が最終的に性急なまでの生への意志を手に入れる契機が何なのか、それは読者に委ねられたようにも読める。しかしここで重要なことは、理由が何であれ、僕たちは結局ここで生き続けるしかないのだし、そうであれば僕たちは暗闇の存在を恐れて時間を無駄にする訳に行かないのだという認識にたどり着くことではないかと僕は思う。
暗闇が僕たち自身の中にある宿命的なものであるならば、僕たちはそれを恐れるべきでない。僕たちの生が本質的に闇を、あらかじめ死を内包しているなら、僕たちはその影に怯えるべきでない。すべての楽観的な自明性、自動性への信頼がたたき壊された世界で、僕たちはそうした精神の荒涼を生きる新しい生のスタンダードを獲得しなければならない。この物語プロパーにそこまでを読みこむかどうかはともかくとして、村上が敢えて書き下ろしでこの作品を短編集の最後に置いたのは、まさにそういう意味なのではないかと僕は思うのだ。



Copyright Reserved
2004 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com