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1980年の後半に発表された4編に、2編の書き下ろし(「加納クレタ」と「ゾンビ」)を加えた短編集。長編でいえば「ダンス」と「国境の南」の間に発表されたものだ。「ダンス」と「国境の南」の間には明らかに文学的な断層があり、それを境に村上の書く小説世界は確実の次の次元へと深化を遂げているが、ここに収められた6編の短編小説もまた、その前の「パン屋再襲撃」とは隔絶している。それまでの、ある種の親密で特別な約束事で守られた世界から、この短編集では容赦のない破綻、救いのない絶対的な矛盾の存在が明らかに示され、それらに対峙する読者の現実認識の質が試されていると言っていい。

このような傾向はこの後の長編、就中「ねじまき鳥クロニクル」に顕著だ。救いがあるのだとしたらそれは僕たち自身の固い意志の中にしか見出し得ないのだし、そのためには僕たちは必然的に手を汚さねばならない。本作は、そのような認識に到達し、その上でそこにあり得べき救済のイメージを手にするまでの、模索の過程と言うことができるかもしれない。ここに収められた短編はどれも、「パン屋再襲撃」に収められた「ねじまき鳥と火曜日の女たち」とともに「国境の南」や「ねじまき鳥クロニクル」に結実して行く流れのものだ。

TVピープル

人間をひとまわり小さくしたようなTVピープルが、ある日曜日の夕方、「僕」の部屋に大型テレビを運びこんでくるところからこの物語は始まる。アンテナにも繋がれず、砂の嵐を映し出すだけのテレビ、しかしそれはここではないどこか別の世界と接続されたテレビではないテレビだったのだ。TVピープルの出現が「僕」の現実を少しずつ浸食し、歪め始める。そしてテレビから出てきたTVピープルは「僕」の妻がもう帰ってこないと言う。
テレビを媒介にして現実と異界の位相が入れ替わる、あるいは混じり合うというアイデアは「アフターダーク」につながって行くものだし、異形の世界が次第に現実を浸食し損なって行くというモチーフは「ねじまき鳥」における猫の失踪や妻の出奔を思い起こさせる。テレビの中で作られる奇妙な機械が飛行機だとTVピープルは言う。そして僕も次第にそれを受け入れて行く。「あれだけ見事に精密な仕事をしているんだから、それはきっと飛行機なのだ。たとえそうは見えなくても、彼らにとっては、それが飛行機なのだ。たしかにこの男の言うとおりだ」。そうした認識の変容はオーウェルの「1984」にも似ている。

飛行機 ――あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか

「彼」は彼女からひとりごとを言うクセを指摘される。彼女には夫があり娘がいる。そしてよく泣いた。「人の心というのは、深い井戸みたいなものじゃないかって思うの。何が底にあるかは誰にもわからない。ときどきそこから浮かび上がってくるものの形から想像するしかないのよ」と彼女は言う。彼のひとりごとは飛行機に関するものだ。「深い森の奥でじっと誰かを待っているその飛行機のこと」。自分の心の奥底に眠っている自分すら知らない領域、そしてそれがふと意識の表面に姿を現す瞬間。短い作品だがここにも「内なる彼岸」というテーマがはっきりと息づいている。

我らの時代のフォークロア ――高度資本主義前史

高校時代の友人が学生時代につき合っていた彼女と数年後に奇妙な再開を果たすという物語。成績もよく人望もある優等生という人物の造形は「ダンス」の五反田君を思い起こさせる。彼らの抱える過剰と欠落の質も互いに似ている。結婚するまでは処女でいるのだと頑なにセックスを拒み、「私が誰かと結婚したあとであなたと寝る」と奇妙な「約束」を結んだまま別れた学生時代の彼女が、二十代後半に電話をかけてきて自分はもう結婚した、そしてその約束のことをちゃんと覚えているのだと言う。「彼女にとってそれは約束だったのだ。はっきりとした誓約だったのだ」。
生きられなかった本来の少年期に対する憧憬と悔恨が、現在の自分に迫って来るというテーマはまさに「国境の南」そのものだ。彼は彼女のマンションに赴き、しかしそこで、かつてそうしたように彼女と服を着たままペッティングすることしかしなかった。「それはもう終わってしまったことなんだ。それはもう封印され、凍結されてしまったことなんだ。もう誰にもその封印を取ることはできないんだ」。それは今から再び元に戻したりすることのできない筋合いのものだ。「それは本当の最後のさよならだったんだ」。そうした場所からの再生を求めて村上は「国境の南」を書いたのではないかと思う。

加納クレタ

水の音を聴くことを職業とする加納マルタの妹、加納クレタの物語。加納クレタもマルタもいうまでもなく「ねじまき鳥」の登場人物であり、水の音を聴くというモメントはそのまま長編に引き継がれているが、加納クレタの造形はやや異なっている。ここでは幻想的、寓話的な語りの中で、「男たちは私を見るとみんなきまって犯そうとするのだ」と加納クレタの抱える問題の本質が述べられている。
そのために加納クレタは人里離れた山にこもって水瓶の世話をしながら火力発電所の設計をしている。ある日加納クレタは調査にやってきて彼女を犯そうとした警官を殺してしまうが、その幽霊をもてあそぶうちに自信をつけ、外の世界に戻って火力発電所設計の第一人者になる。しかしやがて「燃えるような緑の目」をした大男に暴力的に犯され、喉を裂かれて殺される。理不尽な暴力とセックス。「ねじまき鳥」つながるアイデア・スケッチである。

ゾンビ

墓場を歩きながらゾンビの話をしているカップルの男にゾンビが取り憑いて、という他愛のない掌編。悪夢から覚めたと思ったらそこはまた悪夢の世界だったという入れ子構造に現実感の相対化を見ることもできるが、そこまで難しく読み解く必要もないだろう。

眠り

ある日突然眠れなくなった主婦の話。眠れなくなった彼女はブランディを舐め、チョコレートをかじりながらむさぼるようにロシアの長い小説を読んだ。彼女はまるで時間を止めているように現実をやり過ごし、自分だけの世界に耽溺するようになる。いや、それは時間を引き延ばしているのかもしれない。「死とは、眠りなんかとはまったく違った種類の状況なのではないのだろうか――それはあるいは私が今見ているような果てしなく深い覚醒した暗闇であるかもしれないのだ。死とはそういう暗黒の中で永遠に覚醒しつづけていることであるかもしれないのだ」。眠りを失うことで彼女は明晰なビジョンを手に入れるが、それは限りなく「死」に近い視点だった。
ありふれた日常が、些細なきっかけで取り返しのつかない破綻へと導かれて行く。そこには何か運命的で絶対的なモメントが介在している。「眠れないようになってから、私の思ったのは、現実というのは何とたやすいのだろうということだった。現実をこなしていくなんて、実に簡単なことなのだ。それはただの現実にすぎないのだ」。しかしそれでは「私」の実体はどこにあるのだろう。人が自ら破綻を選び、困難な生の坩堝の中に飲み込まれて行くさまを、独自の説得力で描いたハードな作品だ。



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