logo 街とその不確かな壁


この作品は(「あとがき」にもあるとおり)1980年に文芸誌「文學界」に掲載された150枚ほどの中編「街と、その不確かな壁」(以下「街と、」)を下敷きにしたものである。村上春樹は「内容的にどうしても納得がいかず」その作品を今日まで書籍化していない。

その後、その作品は長編「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の二つのストーリー・ラインのうち「世界の終り」のパートとしてリライトされた。本作は、「街と、」に対する「それとは異なる形の対応」としてあらためて新たに書かれたものだ。

「街と、その不確かな壁」は本作の第一部、「私」が街にとどまる決心をして、壁の外に出るために溜まりに飛びこむ影を見送る部分までに相当している。本作の第一部は基本的には「街と、」の構成を踏襲する形で書かれてはいるが、表現には全面的に手が入れられ、細かい設定はいくつか変更され、「街と、」にはなかったエピソードが多く追加されている。しかし本作が「街と、」と最も大きく異なるのは結末部分である。

「街と、」では「僕」は影と互いの身体をベルトで強く結びつけ、ともにたまりに飛びこむ。そして影とともに元の世界に帰還したことが示唆される。しかし、本作では「私」は溜まりのほとりで影を見送り、そのまま街に戻る。そして、それにもかかわらず第二部は元の世界に帰った「私」の視点から語られる。


私ははっきり心を決め、影に別れを告げ、あの壁に囲まれた街に単身残ったはずなのだ。それなのにどうして私は今、この世界に戻っているのだろう? 私はずっとここにいて、どこにも行かず、ただただ長い夢を見ていただけなのだろうか?

*   *   *

「私は自分の意思で、あちらの世界に居残ることを決めたのです。しかし思いに反してこちらの世界に戻ってきてしまいました。まるで強いバネに弾き返されるみたいに。それについてずいぶん考えを巡らせてみたのですが、結局のところ、私の意思を超える何らかの別の意思がそこに働いていたとしか思えないのです」


ここでは、「街と、」では比較的明らかだった「影とはなにか」「影を死なせるとはどういうことか」「影と別れて生きるということはどういうことか」というテーマが、意図的にシャッフルされ問い直されている。その「問い直し」こそがこの作品の中心的なテーマである。

「街と、」では、「影ってのはつまりは弱くて暗い心なんだ。誰がそんなものを欲しがる?」とはっきり説明されていた。そこでは「弱くて暗い心」と「それを捨てることによって得られる永遠の心の平穏」とが対置され、弱くて暗い心をまるで異物のように切り捨てることで得られる心の平穏に果たして価値があるのか、弱くて暗い心もまた自分自身を構成する不可分な一部であり、簡単に死なせたりすることのできるものではないのではないかという問いかけが物語の中心的なテーマになっている。そして、その問いかけに答えを出すように、「僕」は影と手に手を取ってたまりに飛びこみ、「街」をあとにする。

この事情は「世界の終り」でも似通っている。ここでは「影」は心のことだと説明される。


「僕はこう思うんです」と僕は言った。「人々が心を失うのはその影が死んでしまったからじゃないかってね。違いますか?」
「そのとおりだよ」
「彼女の影はもう死んでしまっていて、その心をとり戻すことはできないというわけなんですね?」

*   *   *

「しかしやがては君の心も消えてしまう。心が消えてしまえば喪失感もないし、失望もない。行き場所のない愛もなくなる。生活だけが残る。静かでひそやかな生活だけが残る」

(いずれも「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」村上春樹 新潮社)


そして、この作品でも影が人の暗い心であるという基本的な認識は共通している。例えば「君」はこんなことを言う。


「君はその影に会ったことはないんだね?」
「私の影に?」
「そう」
 君は不思議そうに私の顔を見る。そして言う。「暗い心はどこか遠いよそにやられて、やがては命を失っていきます」

*   *   *

「私の影が死にかけているみたいだ」、私はある夜、図書館で君にそう打ち明ける。
 (略)
 君はそれを耳にして、少しばかり顔を曇らせる。そして言う。「気の毒だとは思うけれど、仕方のないことね。暗い心は遅かれ早かれ死んで、滅びて行くのよ。諦めなくては」


しかし、この作品では、影が「弱く暗い心」であるという基本的な認識そのものが次第に揺さぶりを受けて行く。


「あんたは外の世界にいたのが彼女の影で、この街にいるのが本体だと考えてる。でもどうでしょう。実は逆なのかもしれません。ひょっとしたら外の世界にいたのが本物の彼女で、ここにいるのはその影かもしれない」

*   *   *

「本体と影とは本来表裏一体のものです」と子易さんは静かな声で言った。「本体と影とは、状況に応じて役割を入れ替えたりもします。そうすることによって人は苦境を乗り越え、生き延びていけるのです」


この「本体」と影との交換可能性、両義性こそ、この作品が40年の歳月を経て再び書き直されなければならなかった理由の核心に他ならない。「本体」が「思惟」であり、「影」がそれを惑わし、乱す「感情」だと一応は措定しながらも、「いや、それは本当か」とその自明性を疑い、「もしかしたら両者の区別は便宜的なものに過ぎないのではないか」「実はその間に本質的な違いはないのではないか」と改めて問い直すことがこの作品の中心的なテーマのひとつなのだ。

第三部では、第二部を語っていた「私」が実は、たまりに飛びこんで「街」から脱出した「影」であったことが明かされる。


「きみは外の世界で、ぼくの影に会ったことがあるの?」
「何度も」と少年は短く肯いて言った。
 少年の発言は私を驚かせ、困惑させた。彼が外の世界で私の影に何度も会っていた?
「ええ、あなたの影はあちら側で元気に暮らしています」

*   *   *

「ここから逃れたぼくの影は外の世界で、ぼくの代役を問題なく務めている――きみはそう言ったね」
「ええ、そのとおりです。彼はあなたの代わりを遺漏なく果たしています」


この「思惟」と「感情」の区別の自明性への問い直しは、村上の作品やその創作態度そのものの変化に対応したものだ。この作品の第一部に顕著に表れているとおり、初期の村上の作品は、いかに煩わしい世俗の些事を捨象し、自分の心の声だけを聞いて生きて行けるかということを明確に志向していた。そしてまた、その読者も村上作品のそのようなトーンに魅力を感じていたはずだ。それは都市化のなかで従来の濃密な地縁や血縁をよりどころとする共同性から解放され、個として生きることを求めた若い世代が見出した新たな居場所であり、社会との関わり方のひとつのモデルケースであった。

そして、「壁と、」に描かれた「壁に囲まれた街」はまさにその「思惟への沈潜」の象徴でありメタファーであった。心を乱す「雑音」「夾雑物」である「感情」を排除し、引き伸ばされた永遠のなかで、森閑とした「個」のサイロの中にただ無期限に滞在し続けること。それは学生運動の挫折を経て政治に絶望し、しかし都市化のなかで共同性に回帰することも拒否した若き遊牧民たちにとって魅力的な「あり方」のひとつであり、村上の作品のプロトタイプだった。デビューから、90年代前半に書かれた「国境の南、太陽の西」あたりまでの村上の作品には、そうした他者との濃密な関わりを回避し、自己の内側にどこまでも沈潜して行くような傾向がはっきりと焼きつけられている。それこそが「村上文学」の第一の特徴であったのだ。

しかし、この傾向は1990年代なかばごろから変化を遂げる。1994年に発表された「ねじまき鳥クロニクル」では、現代と1930年代のノモンハン、第二次世界大戦中の満州を往来しながら、暴力的なものと対峙する自分自身の中にもそれと見合う薄暮の領域があることが示唆される。主人公は深い闇のなかで、姿の見えない悪しきものをバットで殴り殺す。そこにはそれまでの村上作品にはなかった、自分をとりまくものとの「関わり合い方」を模索する硬質な視線が確かにある。

村上は1997年には地下鉄サリン事件の被害者への聞き取りをまとめた「アンダーグラウンド」を、1999年にはオウム真理教の信者へのインタビューをまとめた「約束された場所で」を上梓、騒然とした世情のなかで事件を通して顕在化したバブル経済崩壊後の精神のありかを問う営みに積極的に関与する姿勢を示した。こうした村上の作風や創作態度の変化は、村上自ら「デタッチメント」から「コミットメント」への移行という言葉で説明している。


「コミットメント(かかわり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(かかわりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが」

*   *   *

僕が小説家になって最初のうち、デタッチメント的なものに主に目を向けていたのは、単純に「コミュニケーションの不在」みたいな文脈での「コミットメントの不在」を描こうとしていたのではなくて、個人的なデタッチメントの側面をどんどん追求していくことによって、いろんな外部的価値(それは多くの部分で一般的に「小説的価値」と考えられているものでもあったわけだけど)を取り払って、それでいま自分の立っている場所を、僕なりに明確にしていこうというようなつもりがあったのだという気がします。

(いずれも「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」河合隼雄・村上春樹 岩波書店)


「街と、」や「世界の終り」では比較的はっきりしていた「影とはなにか」という問いの答えが、40年を経てこの作品で大きな揺さぶりを受け、問い直されなければならなかったのは、その間に村上の視点が「心を惑わせる過剰な感情の揺らぎをなるべく回避して、森閑とした自分の内側の美意識だけを見つめていたい」というデタッチメントから、「なんであれ自分の内に潜むものがその外側と関わり合うその交点にこそ物語が生まれる」というコミットメントへと展開し、世界を思惟と感情に二分することの自明性が失われたからに他ならない。

村上作品として不可欠ななにかを内包しながらも村上自身納得できないまま書籍化されてこなかった40年前の作品を、影と本体の交換可能性、両義性という視座を持ちこむことによって、今日の彼の問題認識のなかに位置づけようとした、アップデートしようとしたのが本作だということになるのだろうと思う。


「どちらが本体であるか、影であるか、そんなことはたいした問題じゃないと?」
「ええ、そうです。影と本体はおそらく、ときとして入れ替わります。役目を交換したりもします。しかし本体であろうが、影であろうが、どちらにしてもあなたはあなたです。それに間違いはありません。どちらが本体で、どちらがその影というより、むしろそれぞれがそれぞれの大事な分身であると考えた方が正しいかもしれません」


それによって「壁」の存在もまた両義的なものになった。「ここは高い煉瓦の壁の内側なのか、それとも外側なのか」。かつてドイツ民主共和国がベルリンの半分を壁で囲んだとき、囲い込まれたのは西ベルリン市民ではなく、実はドイツ民主共和国そのものであったように、壁の内側と外側すらそこでは自明のものではあり得ない。

それでも「壁に囲まれた街」は確かに存在する。そしてそこには影と別れ、古い夢を読むことをなりわいとしながら永遠の毎日を繰り返す「私」がいる。どちらが本体でどちらが影であれ、人はときとしてそのようにふたつに引き裂かれ、互いの分身としてふたつの異なった世界を並行して生きることになる。

しかし物語の最終盤、壁に囲まれた街で暮す「私」のもとに「イエロー・サブマリンの少年」が現れ、こう告げる。「あなたの心はこの街を立ち去ることを求めています。というか、ここを立ち去ることを必要としています」。本体と影は合一を果たさなければならないと少年は言うのだ。

かつて思惟の奥深くに沈潜しながら、それでもそこに残る微かな心のふるえに目をこらし、ひそやかな風の音を聴くように心象風景をなぞることでかろうじて世界のどこかに居場所を確保しようとした村上の世界は、村上自身のなかで超克され、次第に開かれて行った。そして我々読者もまた、そのような村上の世界の遷移を受け入れ、物語の重層性、多義性によって奏でられる豊かな音楽を聴くようになった。それは必然的な変化であった。

しかし、だからといってその結果、初期の村上の作品がすべて色あせ、もはや顧みる価値のないものになったかといえばもちろんそんなことはない。そこにはそうしたやり方でしか語られ得ない物語が確かにあり、それによって我々の心のなかでとても大切ななにかが形づくられたのは間違いのないことだった。それは、日々の些事を避けてたどり着いた場所においてすら澱のように積もって行くかすかな心のつぶやきを丁寧に聞き取り、その熱を空気の中に解きはなつ営為であった。

僕たちは、自分自身の図書館で、自分自身の古い夢を読んでいたのだ。

今、本体と影が、思惟と感情が「勇気ある落下」を経て合一を果たし、あるべき場所に帰ろうとするとき、その古い夢を読む営為は引き取り手のないまま放り出されてしまうのだろうか。否、と村上は言う。ここにおいてこの物語が書かれなければならなかったもうひとつの大きな契機が立ち現れる。それは「継承」である。


少年はメモ帳の新しいページを開き、そこにボールペンで素速く文章を書いた。そしてデスク越しにメモ帳を私に差し出した。私はそれを読んだ。

 その街に行かなくてはならない

*   *   *

またしばし沈黙の時間があり、それから少年がやはり声に出して言った。
「〈古い夢〉を読む。ぼくにはそれができる」

*   *   *

「そしてきみはぼくの後継者になる」
「はい、ぼくは〈夢読み〉としてあなたのあとを継承することになります」


古い夢は読み続けられなければならない。読んだ本をまるで写真に撮るように一字一句記憶してしまい、自分のなかに巨大な図書館を構築している少年。おそらくはサヴァン症候群として描かれるこの少年は、この世界では困難な生を強いられるが、彼は壁に囲まれた街で古い夢を読むという天職を与えられた。村上は、その営為が新しい世代に継承されるべきこと、そのような営為によってこそ救われるべき魂は確かに存在することをここではっきりと宣言しているのだ。

40年前に書いた作品を現在の視点からリライトしながら、さらにその先を書き継いで行くという困難な作業を通じて上梓されたこの作品は、それゆえどうしてもバランスの悪い部分が残り、異なる語りのスピードや温度、湿度が混在する印象をぬぐえない。しかしそれでも今回村上が「街と、」を引き出しの奥から引っぱり出して最終的に完結させたいと思ったのは、そこに彼自身が書いてきたものの系譜を総括し、それが引き継がれるべきことを声明したいという意志があったからではないか。

この作品は、もちろん独立した「村上春樹の新作」としても楽しめるが、初期の村上の作品群と、そこにおいて特徴的であったデタッチメントへの傾きに惹かれた経験のある読者の方がより深い感興を覚えるだろう。「街と、」という作品に今の視点からひとつの結末を与えることは、村上春樹にとって長いあいだ残っていた「宿題」であったのだろう。

それに対して、世界を思惟と感情に二分することの自明性の否定と、古い夢を読む役割の継承というふたつの視座から、今読まれるべき物語として「街と、」を再構成し、宿題を片づけてしまった村上が、はたしてこれ以上新しい物語を語ることはあるのだろうかと僕は思っている。



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