logo 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年


13作目の長編。「ねじまき鳥」「カフカ」「1Q84」などのサーガ的大作と、「国境の南」「スプートニク」「アフターダーク」などのように短編を膨らませたかのような長編ないしは中編を交互に発表しているこのところのサイクルからすれば、順番的にも分量的にも後者の系譜に属する作品である。1月に新刊発売の告知があったが、内容に関して事前には一切開示されず、それもあってか発売前に重版が行われ発売後7日で100万部を突破するなど、前作「1Q84」に続いて社会的にも大きな注目を浴びた。

また、その長く奇妙なタイトルも話題になった。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」というタイトルは、しかし実際に作品を読み進めてみると、内容をそのまま表したものであったということが分かる。そして、「色彩を持たない」というのがどういうことか、それがまさにこの作品の中心的なテーマである。

主人公の多崎つくるは鉄道会社で駅施設の営繕を担当する36歳の独身男性。彼は高校時代に男性3人、女性2人の親密なグループに属していたが、大学2年のとき、突然そのグループから放逐されてしまう。理由も告げずに一切の関係を絶たれたつくるは、長い間その傷を抱えながら一人で生きてきたが、恋人の示唆によってその真相を知るためにかつての友人たちを訪ねることを決意する。その巡礼の物語だ。

5人のグループのメンバーは、つくるを除いてみんな姓に色を表す文字が入っていた。赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒埜恵里、そして色彩を持たない多崎つくる。これが「色彩を持たない」ということの文字通りの意味である。だがその意味はもちろんそれだけではない。

「そう考えてみればグループの中で、多崎つくるだけがこれという特徴なり個性を持ちあわせない人間だった」
「つくる個人についていえば、人に誇れるような、あるいはこれと示せるような特質はとくに具わっていない。少なくとも彼自身はそのように感じていた。すべてにおいて中庸なのだ。あるいは色彩が希薄なのだ」

つくるは自分のことを、見てくれは悪くないが中身のない人間であると考えている。語るべき中身を持たない空疎な人間、それが色彩を持たないということのもうひとつの、あるいは本当の意味なのだと。ここでは色彩というものは、その人のありようの鮮やかな特徴、あるいは生き生きとした生命力といった、生の徴(しるし)そのものを表していると考えられる。

つくるは5人と親密なグループを形成し、その一員であることに強い調和を感じていた時期から既に、自分の空疎さを意識していた。そして、その関係が唐突に失われたことでその空虚感は顕在化し、つくるは死に接近する。だが、つくるはその時に死ぬことができず、死に損ねた後の時間を、まさに色彩を失ったまま生きて行くことになる。

「あとに残ったのは諦観に似た静かな思いだけだった。それは色を欠いた、凪のように中立的な感情だった。空き家になった古い大きな家屋に彼は一人ぽつんと座り、巨大な古い柱時計が時を刻む虚ろな音にじっと耳を澄ませていた。口を閉ざし、目を逸らすことなく、針が進んでいく様子をただ見つめていた。そして薄い膜のようなもので感情を幾重にも包み込み、心を空白に留めたまま、一時間ごとに着実に年老いていった」

つくるが5人のグループから関係を絶たれた後に出会う友人、灰田の語る彼の父のエピソードも示唆的だ。ここでは色彩が明示的にその人のキャラクターと関係するものとして語られている。

「じゃあ教えてあげよう。人間は一人ひとり自分の色というものを持っていて、そいつが身体の輪郭に沿ってほんのりと光って浮かんでいるんだよ。後光みたいに。あるいはバックライトみたいに。俺の目にはその色がはっきり見える」
「世の中には好ましい色もあれば、とても嫌な感じのする色もある。楽しそうな色もあれば、悲しげな色もある。光が濃い人間もいれば、淡い人間もいる」

あるいは、沙羅が話すクラスメートについてのエピソードにも色彩は現れる。

「でも、そのとき彼女の姿を久しぶりに目にして、私は言葉を失ってしまった。彼女は、なんて言えばいいのかしら、色が薄くなって見えたの。強い陽光に長い間曝されて、全体の色彩がまんべんなく褪せてしまったみたいに。(略)それはずいぶん奇妙な体験だった。人がたった数年の間にそんなに目に見えて薄くなるなんて」

色彩が生の徴であるならば、その喪失は死への接近に他ならない。だとすれば、色彩を持たないまま生き延びることになったつくるの生は、予め失われた生きるに値しない生なのか。この作品はそのような生と死のせめぎ合いの物語としてドライブされることになる。

つくるは巡礼の果てにフィンランドにたどり着く。そこで再会を果たしたエリ(黒埜恵里、クロ)とのダイアログはこの物語のハイライトと言ってもいいだろう。クロは絞殺されたユズ(白根柚木、シロ)についてこう言う。

「『あの子には悪霊がとりついていた』、エリは密やかな声で打ち明けるように言った。『そいつはつかず離れずユズの背後にいて、その首筋に冷たい息を吐きかけながら、じわじわとあの子を追い詰めていった。そう考える以外にいろんなことの説明がつかないんだ。(略)君はたぶんそのことをしっかり知っておかなくてはならない。それは悪霊だった。あるいは悪霊に近い何かだった。そしてユズにはとうとうそいつを振り払うことができなかった』」

それは村上が一貫して書き続けている、僕たちの当たり前の生活のすぐ隣でぽっかりと口を開けた不吉で邪悪で血なまぐさいもののことだ。不吉で邪悪で血なまぐさいものでありながら、同時に僕たち自身の一部でもあるような、僕たちの宿命的な闇のことだ。ユズは自らの闇に囚われてつくるをレイプ犯に仕立て上げ、自ら首を差し出したのだ。その首を絞めるのはだれでもよかった。つくるであっても、エリであっても。

「僕にはたぶん自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。(略)僕はいつも自分をからっぽの容器みたいに感じてきた」と言うつくるに対して、エリはこう言う。

「『たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない』とエリは言った。『もしそうだとしても、君はとても素敵な、心を惹かれる容器だよ。自分自身が何であるかなんて、そんなこと本当には誰にもわかりはしない。(略)それなら君は、どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感の持てる容器に』」

他人との濃密な交わりを避けて何事にも距離を置くつくるの姿は村上の多くの作品の主人公と重なり合う。とくに初期の作品にはそうした傾向が強かったように思う。予め失われた、あるいは暫定的な生を生きること。それが暫定的で便宜的なものであるからこそ成り立つひとつの完結した小宇宙。僕は村上のそうした世界観に決定的に惹かれ、長く彼の作品を読み続けてきた。

そのような暫定的で便宜的な生のあり方を前提にしたトーンは多かれ少なかれどの作品にも通底している。だが、この作品で村上はそのような生のあり方に注意深く注釈を施しているように思える。「そして生き残った人間には、生き残った人間が果たさなくちゃならない責務がある。それはね、できるだけこのまましっかりここに生き残り続けることだよ。たとえいろんなことが不完全にしかできないとしても」。

それは祝福された生というよりは、僕たち自身が選ぶことのできない宿命としての生だ。自分の意志で世界に生まれてきた人はいない。ある者は悪霊にとりつかれ若くして死ぬだろう。しかし、死んでいない者は生きなければならない。悪霊の影に怯え、日々色を失いながら、僕たちはたとえそれが絶望的な後退戦であったとしても、その戦いを戦わない訳には行かないのだ。

この作品はそのような意味での生と死のせめぎあいの物語であり、あるいは最も美しいものが既に失われた後の長い後退戦の中で、僕たちが何を頼りに色彩を探し、何を手がかりに残りの生を肯定することができるのか、そのひとつの試論に他ならない。

美しいものはしばしば、僕たち自身にはどうしようもない暴力的な何かによって呆気なく損なわれて行く。だが、そこに抱きしめるに足るものはもはや本当に何も残されていないのか。村上春樹はこの作品で、そのような何かのために目を凝らし、耳をそばだてることの意味を問うているのだと僕は思う。

この作品があの大震災後の僕たちの心象風景とどこかしらでフックするのだとしたら、それはそのような意味でしかあり得ない。(2013.4.26)



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