logo 1Q84


12作目の長編小説。2009年5月にまず「BOOK1」(第1巻)と「BOOK2」(第2巻)が発売され、2010年に「BOOK3」(第3巻)が発売された。第1巻と第2巻が発売された時点では第3巻があるかどうかは明らかにされていなかった。今も第3巻で完結とはどこにも明言されていないのでもしかしたらサーガ的につながって行くかもしれないが、ここではひとまず第1巻から第3巻までをひとつながりの物語として論じることにしよう。

それぞれ抑圧された子供時代をおくり、ひとときだけ心を通わせて離ればなれになった青豆雅美と川奈天吾が、互いにその思い出を心に抱きながら困難な世界を生き、30歳を迎えて再び巡り会おうとする物語。しかし、彼らの前で世界は不可解な変容を遂げる。そこは血なまぐさく、リトル・ピープルなるものが力を奮う、月の二つある世界にいつの間にか遷移していたのだ。

こんなふうに粗筋を要約しても、この作品を読んでいない人にはたぶん何のことだかさっぱり分からないだろう。これはそういう作品だ。もっと詳しく粗筋を説明することもできるが、そのようにしても所詮この物語の持つ重層性、多義性を説明することはできない。「説明しなくてはそれがわからんというのは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」。本当にこの作品を知りたければおそらく全部で3,000枚を超すと思われるこの重厚な小説を読み通すしかないのだ。

入れ子になったいくつもの小さな物語が全体としてひとつの大きな物語を構成し、その大きな物語構造がまたひとつひとつの小さな物語の成り立ちを規定する。上位構造は下位構造を繰り返し、細部のどこを取っても上位構造が現れる、まさにフラクタル図形のような精密な重層性、多義性がここにはある。そのような全体性、総合性こそ村上春樹がここで目指したものであり、それは多様なエピソード、多様な声の集積として、細部を含んだ全体として僕たちに語りかけてくる。この物語がこの後さらにサーガ的な展開を見せるとすれば、その根拠はこの総合性以外にはあり得ない。

僕がこの物語を読みながら感じていたのは、善や悪といった世俗的な観念の果てしない相対化であり、それゆえに牛河やタマルといったプラグマティックな登場人物の具体的な手触りこそがそこにおいて唯一の道標になっているのではないかということだった。しかし、世俗的な観念の果てしない相対化の行き着く先は結局のところ神性でしかない。そこにおいて物語は「起こったことはすべて善き事である」というテーゼにたどり着く。青豆が垣間見る神性はまさにそのような存在である。

「でもそれは彼らの神様ではない。私の神様だ。それは私が自らの人生を犠牲にし、肉を切られ皮膚を剥かれ、血を吸われ爪をはがされ、時間と希望と思い出を簒奪され、その結果身につけたものだ。姿かたちを持った神ではない。白い服も着ていないし、長い髭もはやしていない。その神は教義も持たず、教典も持たず、規範も持たない。報償もなければ処罰もない。何も与えず何も奪わない。昇るべき天国もなければ、落ちるべき地獄もない。熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる」

だが、そのような神性を前提とするとき、「生」はにわかに困難なものになってしまう。何しろ神は「ただそこにいる」だけで、何もしてはくれないのだから。かつて小沢健二が「神様を信じる強さを僕に」と歌ったのもその文脈で理解し得るだろう。タマルがユングの言葉を借りて語る真理、「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」もまた同じように考えることができる。

そうした「神々の沈黙」が僕たちに強いる巨大な空白を埋めるのがリトル・ピープルであり、それはひとつの大きな物語の体系である。村上自身の言葉を借りるなら「神話的なアイコン」である。僕たちが宗教なるものを必要とするのが「神々の沈黙」によるものだとすればそれは奇妙な逆説だが、いずれにせよ、僕たちは大昔からそこらじゅうに神々の物語を自ら見つけ出し、その物語を更新し続けることで街を作り、国家を作り、空白を埋め尽くしてきたのだ。

「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。だからこそ宗教が成立する」

だとすれば、「1Q84」が描き出そうとするものは、そのような「集合的な物語」としての神話の体系と、「個的な物語」としての具体的な個人の心性との、激しい相克ではないのか。あるいはまた、「饒舌な神々」と「沈黙する神々」の、解決のない対立ではないのか。

「神のことを俺はよく知らん。というか、カトリックの経営する孤児院でずいぶんひどい目にあわされたから、神についてあまり良い印象は持っちゃいない。(略)神はもしいたとしても、俺に対して親切だったとはとても言えまい。しかし、にもかかわらず、その言葉は俺の魂の細かい襞のあいだに静かに浸みこんでいくんだよ。俺はときどき目を閉じて、その言葉を何度も何度も頭の中で繰り返す。すると気持ちが不思議に落ち着くんだ。『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』。悪いけど、ちょっと声に出して言ってみてくれないか?」

神々の沈黙による大きな空白を自分一人の紡ぎ出す個的な物語によって支えながら、神話的なものと対峙し続けるのは簡単なことではない。そこには強固な意志がなければならないし、すべての観念が相対化される以上、その「絶対的な相対性」を承認した上で、その上に自分固有の個的な物語を構築する「圧倒的な偏見」が必要になる。そのようなエネルギーを人はどこから汲み出すべきなのか。もしかしたら村上が書きたかったことのひとつはそのことではないのだろうか。

ここで村上はその答えをだれかを思い続ける強い心に求めた。子供の頃の一瞬の触れ合いによって交わされた秘密の固い約束に求めた。その約束はこの長く大きな物語のすべての動因となっている。僕たちが、神話的なもの、無意識に共有されるものと、一人の具体的な個として向かい合うときに拠り所とすべき「何か」について、この物語は大事なことを示唆しているように思われる。

「『私には愛があります』と青豆はきっぱりと言った。(略)
『愛があればそれで十分だと?』と男は訊ねた。
『その通りです』(略)
『非力で矮小な肉体と、翳りのない絶対的な愛――』と彼は静かな声で言った。そして少し間をおいた。『どうやらあなたは宗教を必要としないみたいだ』
『必要としないかもしれません』
『なぜなら、あなたのそういうあり方自体が、言うなれば宗教そのものだからだよ』」

だが、敢えて言えば、この物語は神話的なもの(集合的な物語、リトル・ピープルなるもの、饒舌な神々)に対する「愛」(個的な物語、反リトル・ピープル作用、沈黙する神々)の勝利の物語ではない。なぜなら、もちろん、「饒舌な神々」も「沈黙する神々」も僕たちに内在しているものだからだ。

僕たち自身が「リトル・ピープルなるもの」と「反リトル・ピープル作用」から成り立っている。青豆と天吾は、手に手を取り、三軒茶屋で首都高速に通じる非常階段を昇ることによって、饒舌な神々が濃密に語りかける世界(月が二つある世界)から、月がひとつだけの世界に帰還を遂げたように見える。しかし彼らが実際にたどり着いたのは、月は確かにひとつだけだが、エッソのタイガーが左の横顔を見せている世界だった。それは、饒舌な神々と沈黙する神々が、どちらも僕たちの内にあって月の両面のように切り離せないものだということなのかもしれない。

「光があるところには影がなくてはならないし、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。カール・ユングはある本の中でこのようなことを語っている。
『影は、我々人間が前向きな存在であるのと同じくらい、よこしまな存在である。我々が善良で優れた完璧な人間になろうと努めれば努めるほど、影は暗くよこしまで破壊的になろうとする意思を明確にしていく(略)』
リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ」

いうなれば僕たちは、個的な物語を手がかりにしながら、リトル・ピープル的なものと不断のネゴシエーションを続けて行かなければならないのだ。そして、個的な物語を手がかりにするということはつまり、僕たちがいかに孤独というものを受け入れるか、そして「愛」というあまりに不確定でつかみどころのない観念をいかに具体的なものとして手にすることができるかということに他ならない。僕はこの「1Q84」という作品を、そのようなテキストとして読みたいし、その意味でこの作品は村上の新たなマイルストーンになるべきものだと思う。

『1Q84』に関する暫定ノート」(2009.7)



Copyright Reserved
2010 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com