logo 羊をめぐる冒険


「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」がともに300枚程度の中編であったのに比べると、800枚以上とボリューム的にも「初長編」と呼ぶにふさわしい力作であり、実際にも村上春樹の出世作となった作品である。登場人物は「風」、「ピンボール」と同じ「僕」を中心に、美しい耳を持った彼女、別れた妻(「ピンボール」で翻訳事務所の事務をしていた女の子)、ジェイ、「鼠」、翻訳事務所を共同経営する友人、右翼の大物の秘書、運転手、いるかホテルの支配人、羊博士、そして羊男など。

前作で示唆されていた「物語」への傾きはここで一気に加速し、「羊をめぐる冒険」というタイトルにふさわしい叙事詩が展開される。「僕」は些細なことから背中に星形の斑紋を持った羊を探す羽目になり、彼女とともに北海道へ渡ることになるのだ。「僕」と彼女はいるかホテルで羊博士に出会い、示唆を得て「鼠」のいる山の上の牧場へ向かう。「僕」は「鼠」との再会を果たすが、実は「鼠」は羊を身体の中に宿したまま死んでいたのだった。

不可解な物語の謎が少しずつ明かされながらすべての伏線が次第に核心に近づいて行く、という物語の構造自体はオーソドックスなものであり、特に目新しいものではないが、「完全にアナーキーな観念の王国」を建設しようと企む羊が宿主を得て日本の戦後政治を支配していたという着想は興味深い。「羊」と言われると何となくファンタジックに聞こえてしまうかもしれないが、混沌を志向するある種の暗いエネルギーが常に世界のどこか、もしかしたら我々の生活のすぐ隣りに存在するという考え方、見方は、この後の村上作品を読む上でも重要なものだと思う。

思うに、この作品で最も重要なポイントは、なぜ「鼠」が羊を宿したまま死ななければならなかったかということだ。端的に言い切ってしまえば、それは「僕」が自分の周りにひとつの完結した世界を築き上げようとしたからなのだと僕は思う。そしてそれはこの小説世界そのもののことでもある。特定の美意識、世界観に裏づけられた、ある限定された領域で自足しているひとつの小宇宙、それが「僕」の世界でありこの作品の小説世界である。だれかがそこに入ってくることはあるが、彼らはいつか去って行く。「僕」だけがそこに残って定点観測のようにその小宇宙に起こることを眺めている。

しかしもちろん世界はそのように完結することのできるものではない。熱力学の法則を持ち出すまでもなく、この世界ではエントロピーは不可逆的に増大し、すべては秩序から混沌へと少しずつ変化して行く。そんな世界の中に完結した小宇宙を持ちこもうとすればそこに軋轢が生じるのは当たり前のことだ。だから、だれかが「僕」の小宇宙から混沌を掻き出さなければならない。穴の開いたボートからバケツで水を汲み出すように、あるいは「世界の終り」で一角獣が「町」から夢を運び出すように。「鼠」はこの小説世界における混沌を抱えこんだまま死ぬしかなかったのだ。

「『キー・ポイントは弱さなんだ』と鼠は言った。『全てはそこから始まってるんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ』」。「鼠」はそんな弱さを守るために羊を宿したまま死んだのだと言う。「ピンボール」の解説でも述べたが、「風」から本作に至る三作、中でも「ピンボール」とこの作品では、村上の本当の苦渋、本当の怒りは「僕」ではなく「鼠」が背負っているように見える。「『羊は君に何を求めたんだ?』『全てだよ。何から何まで全てさ。俺の体、俺の記憶、俺の弱さ、俺の矛盾……羊はそういうものが大好きなんだ』」。

「鼠」は羊がそうしたものを食い尽くしてしまわないうちに自分もろとも羊を葬り去る必要があった。この、完結した小説世界を守るために。それは結局「僕」がすべてを失い続ける過程と完全にパラレルだ。「僕」は「僕」の完結した小宇宙の中で生き続けるためにいろいろなものを失い続けなければならなかった。しかし、重要なことは失い続けることの方ではなく、それでも「僕」が生き続けることの方である。物語の最後、すべてを失った「僕」はジェイズバーを訪ね、その帰り道、50メートルだけ残された昔の海岸に座って初めて自分のために涙を流す。ここに至って「僕」はようやく自分の不完全さを自ら汲み出すことができたのかもしれない。

この作品に顕著なのは物語が自らをドライブして行く力である。この物語には自己展開力、推進力といったようなものが内包されていて、登場人物はその流れに強力に動かされて行くのだ。その力は他ならぬ村上の「生きようとする意志」であり、それに裏づけられた卓抜な構想力と、それを展開して行くための洗練された文体である。そうしたすべてにおいて本作は前2作と隔絶した飛躍を示した作品であり、前作で示された物語への意志の助走が、そのような推進力を得てまさに離陸した記念碑的な位置にある。

繰り返しになるが、この作品が僕たちの胸を打つのだとすれば、それはこれが「すべてを失い続ける哀しい物語」だからではない。それは、自分の世界観に忠実に生きようとすることでいくつかの大切なものを犠牲にしながら、それでも生き続けなければならない僕たちの宿命への省察が、それでも生き続けようとする意志が、結局のところ僕たちは「ひとり」で生きる他ないのだという「孤独」への取り組みが、ここに横溢しているからである。

「鼠」の別荘にたどり着いた「僕」がでたらめに選んだレコードはナット・キング・コールの「国境の南」だった。物語は続いて行く。その実質的な出発点となった作品だ。



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