logo 1973年のピンボール


「風の歌を聴け」に続く第2作。舞台は「風…」から3年後の1973年、「僕」は大学を卒業し友人と小さな翻訳事務所を営んでいる。前作から続いて出てくるのは「僕」の他に「鼠」、そしてジェイと彼のバー。その他の主な登場人物は、双子、翻訳事務所の庶務を取り仕切る女の子、「鼠」と束の間つきあう「女」、直子、そして、「スペースシップ」という名の3フリッパーのピンボールマシン。

前作が「僕」の夏休みの一コマを淡々と切り取って見せたのに比べて、本作では「物語」への傾斜が強まっている。双子と暮らす「僕」の心をある日ピンボールマシンが捉える。「僕」がかつて(「風の歌を聴け」に描かれた70年の冬のことだ)虜になったスペースシップを探して再会を果たすことがこの作品の骨格になっている。

だが、作品にピンボールが登場するのは紙数も半分を過ぎてからだ。そこに至るまでは、僕とある日転がりこんできた双子の女の子との暮らし、「街」に残りジェイズバーに通う「鼠」と「女」のエピソードに費やされる。それでもややもすれば散文詩のようにすら感じられた「風の歌を聴け」に比べれば、この作品で村上は明らかに物語を志向している。

興味深いのは交互に語られる「僕」の物語と「鼠」の物語が最後まで交差しないことだ。僕がピンボールマシンを探し求める物語の一方で、「鼠」は「女」と出会い、離れ、そして「街」を出ることを決心してジェイに別れを告げる。だが二つの物語は実際のところ密接に寄り添っている。特に「鼠」の物語は「僕」の物語を背後から支え、そこで語られない大事な言葉を代わりに「鼠」とジェイが語るという構造になっているように思える。

「でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね」とジェイは言う。「みんながそんなふうに問わず語らずに理解し合ったって何処にもいけやしないんだ。こんなこと言いたくないんだがね……、俺はどうも余りに長くそういった世界に留まりすぎたような気がするんだ」と「鼠」は言う。何かが変わりつつあり、「僕」も「鼠」もいずれ同じ場所に留まり続けることはできないということが示唆される。「風の歌を聴け」で提示された村上の世界観はここで試され、「一人」を引き受けることの重さが主要なテーマになっている。

自分のスタイル、自分の世界観が世の中の多くにとって取るに足りないものであることへの苛立ち、そのようなスタイルを持つことなく生き長らえてしまうことのできるイージーな「生」への憎しみ、そうした違和感がこの作品では膨らみつつある。僕は「脈絡のないバラバラのカードを抱えたまま」途方に暮れ、「鼠」はそのような違和感の臨界点へ向けた後退不能の一歩を踏み出し始める。

圧巻は「僕」が古い養鶏場に並べられた78台ものピンボールマシンと対面する場面だ。「僕」が電源を差しこむとそれらは一斉に唸り始める。寒々しい建物の中でのスターシップとの再会、彼女との短い会話、「何もかもが本当に起ったことじゃないみたい」、「いや、本当に起ったことさ。ただ消えてしまったんだ」。この場面の迫力、喚起力は、村上春樹という作家の資質がそもそもの初めからそこに備わっていたものだということを明らかに示していると思う。

ところで「羊」以降の村上作品には、「ノルウェイの森」を除いてある種のオカルト的、超自然的モメントがほとんど例外なく登場する。この物語にあってそうした世界との結節点になっているのが双子の登場だと思う。もちろん双子の女の子そのものは別に超自然的ではない。しかし、ある朝目覚めると「僕」の両側に寝ていた双子の女の子、という筋立てにはある種の非現実感があるし、バスに乗って「もとのところ」へ帰って行くというのもどことなくファンタジックなものを感じさせる。双子が物語の現実感を希薄にし、それがクライマックスのピンボールマシンとの会話を逆にリアルなものにしているのだと思う。

「井戸」についての言及も見逃せない。「直子」のエピソードの中で「僕」はこう語る。「僕は井戸が好きだ。井戸を見るたびに石を放り込んでみる。小石が深い井戸の水面を打つ音ほど心の安まるものはない」。村上の作品には他にも「底なし井戸に小石を投げ込んだような沈黙」といった表現が出てくる。「井戸」は村上の原風景のひとつなのかもしれない。そしてそれは後に「ねじまき鳥」で大きな役割を果たすことになる。

「直子」のエピソードも印象的だ。「僕」は直子から彼女が育った街のことを聞かされ、後にその街を訪れたときのことを物語っている。プラットフォームを縦断する犬を見た後で、僕はこう自分に言い聞かせる。「すべて終っちまったんだ、もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ」。この作品できちんとした名前を与えられているのは「直子」ひとりだ。「ノルウェイの森」との符合を思わずにはいられない。

村上が、物語の豊穣な世界へと一歩を踏み出した重要な作品だと思う。



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