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村上春樹の処女作。大学生の「僕」が東京から里帰りして過ごした1970年の夏休みの18日間のストーリーである。いや、ストーリー、といってもそこには説明するほどの「筋立て」はない。「僕」がジェイズ・バーに通って「鼠」と呼ばれる相棒とビールを飲む、というのがこの作品の骨格だ。

もちろんそこにエピソードらしいものはある。ジェイズ・バーの洗面所に倒れていた、左手の指が4本しかない女の子との出会いと淡い交歓、犬の漫才師と呼ばれるラジオDJ、デレク・ハートフィールド、ビーチボーイズのレコードを借りた女の子との思い出、しかし、この作品では基本的に「何も起こらない」。だれも死なないしセックスもしない。ただ「僕」の毎日が淡々と過ぎて行くだけ。劇的なモメントはむしろ周到に避けられ、排除されていると言っていいくらいだ。

だが、それではここに語るに足るもの、読むに足るものが何もないのかといえばもちろんそんなことはない。口の悪い者、村上春樹を好きでない者は、ここにあるのは所詮「気分」とか「雰囲気」とかに過ぎない、と言うだろう。僕は、ここにあるのはある種のスタイルへの憧憬であり、大げさな言い方をすれば一つの世界観だと思う。それは、この後、村上春樹のすべての作品を貫くことになる一つの基調であり、通奏低音みたいなものである。村上春樹を読む、ということは、その通奏低音が含む複雑な倍音を聴き分け、その世界観の核心に近づくことに他ならないとすらいえると僕は考えるが、そういう重要で決定的なトーンが、デビュー作であるこの作品にして既に明らかにそこに鳴っているということはたいへん興味深いことだ。

村上春樹の作品の基本的なトーンを評して、「失われること」や「損なわれること」についての物語だとされることもあるが、最初に僕はそれは違うと言っておきたい。これはただ単に「失われること」や「損なわれること」の話ではない。そんななまやさしい話ではない。それは宿命的に失われたり損なわれたりされ続ける我々の生へのレクイエムであり、そうした宿命的な喪失や欠損にもかかわらずよく生き続けようとする必死の試みなのだ。そしてその背景にあるモチベーションは、おそらくは彼自身を失い、損ない続けるこの「世界」への違和感、ルサンチマンであるはずだ。

もう一つここで押さえておきたいのは村上の特徴的な文体だ。その後、年月とともに村上の文体は変遷を重ねて行くことになるが、アメリカ文学、なかんずくハードボイルドやカポーティ、フィッツジェラルドらに強い影響を受けた独特のクールな語り口と鋭い観察眼に裏打ちされた直喩、登場人物の会話やユーモアなど、この作品では特に村上の「語り」の原点を窺うことができる気がする。

この作品に登場する「僕」と「鼠」そしてジェイと彼のバーは、次作「1973年のピンボール」、次々作「羊をめぐる冒険」に引き継がれて結果的に三部作的構成を示すことになる。そしてさらには「ダンス、ダンス、ダンス」でこの三部作に最終的な結末が用意されることにもなる訳だが、それはこの作品ではまだ分からないことだし意識する必要もないだろう。むしろここでは、「僕」という人間の基本的な性格、傾きのようなものを楽しめばよいのではないかと思う。



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