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couples  (1987)
couples

★★★★
ピチカート・ファイヴといえば小西康陽と野宮真貴という最終形態からすればもはや「前史」に属してしまいそうな小西(b)、高浪慶太郎(g、vo)、鴨宮諒(kb)、そしてボーカル佐々木麻美子という4人組時代の唯一のフル・アルバムでありデビュー・アルバム。ノンスタンダード時代の12インチ・シングルで既にメジャー・デビューを果たしていたが、かっちりと構成した3分から4分のオリジナルの歌ものをフィーチャー(1曲のみインスト)した本作は、小西の、世界に対する宣戦布告であったと言っていいかもしれない。

音楽的にはバート・バカラックの大きな影響を受け、ブラスやストリングスを大々的にフィーチャーしたソフトなポップスであり、佐々木麻美子の舌足らずで甘いボーカルも相まって、非常にソフィスティケートされたラウンジ・ミュージックである。その音楽形態からはロックとは呼び難く、実際当時のロック・ジャーナリズムにはほとんど黙殺されたが、音楽としての完成度は新人アーティストとしては破格の高さであり、ここにこめられた小西のルサンチマンの根深さ、後退不能さは初めから異常なまでに歪んでいた。

ここにあるのは格好だけワイルドな自称ロックへの深い失望と軽蔑であり、最も良質な音楽が省みられないことへの怒りと憤りであった。それを何よりも甘い音楽、流麗なアレンジにくるんで、よく読めばゾッとするほど冷淡でシニカルな歌詞とともにそっとリリースした小西のやり口は、他のどんなロックンロールよりもロック的だったと思う。残念ながらそのことはだれにも理解されず、このアルバムもほとんど売れなかったという。小西の音楽的な出自が最も率直に表現された、完璧な音楽至上主義的デビュー・アルバム。


Bellissima!  (1988)
Bellissima!

★★★★☆
デビュー2作目にして早くもメンバー・チェンジ、鴨宮と佐々木が抜け、ボーカルにオリジナル・ラブの田島貴男を迎えてトリオになった新生ピチカート・ファイヴのアルバムである。今考えるとピチカート・ファイヴのボーカルが田島というのも強引な話だが、実際にこのアルバムを聴いてみれば田島のボーカルもさほど違和感なくはまっている。もともと田島もジャズからイージーリスニングに至る広い音楽的バックボーンを持っており、小西、高浪との親和性は高かったと言うことができるだろう。

本作では、前作でのバカラック・マナーのソフト・ポップスからやや趣向を変え、70年代のソウルをモチーフにしたグルーヴィな音作り、曲作りを試みている。ストリングス、ブラスを大々的にフィーチャーしたゴージャスなアレンジの基本路線は変わらないが、跳ねたリズムをベースにオルガンでグルーヴして行く。ソング・ライティングにも田島という新しい力を得て、個々の楽曲としての完成度、そしてアルバムとしてのトータルな完成度ともに非常に高く、代表作のひとつと言っても差し支えない。

しかしながらこのアルバムもセールス的にはまったくパッとしなかった。当時の「ロッキング・オン・ジャパン」にまったく的外れなひどいレビューが掲載されたのを覚えている。このアルバムを聴けば彼ら(中でも小西康陽)の音楽的な「話法」、「文法」への偏愛は明らかなのだし、そのような執着こそ彼らの音楽を読み解くためのキー・アイデアなのに、そのことを理解できないロック・ジャーナリズムによって、彼らはここでも正当な評価を受けることができなかった。「これは恋ではない」は名曲。


女王陛下のピチカート・ファイヴ  (1989)
女王陛下のピチカート・ファイヴ

★★★★
田島をリードボーカルにフィーチャーした「第二期」ピチカート・ファイヴとして2枚目のオリジナル・アルバム。全体の構成は架空のスパイ映画のサントラ仕立てにし、インストやメドレーを効果的に配したコンセプト・アルバムに仕上がっている。曲調も「新ベリッシマ」や「夜をぶっとばせ」といったストレートなロック・チューンから、いかにもスパイ映画のサントラっぽい大仰な無国籍ポップ、疑似ワールド・ミュージック、語りまで、めくるめくようなノンストップ映画音楽の57分が楽しめるようになっている。

僕としては前作、前々作のように、かっちり起承転結のあるポップ・ソングが10曲、12曲並んだアルバムが好きなのだが、このアルバムではアルバム全体をひとつの作品として、そこにパーツをはめこむように細部が構成されている。トッド・ラングレンの「A WIZARD / A TRUE STAR」を思い起こさせる自在さで、小西の本当の資質はこうした作品の方に向いているのではないかと思う。個々の楽曲の完成度の高さはもちろん変わらないが、このアルバムでは特に田島のボーカルやソングライティングの存在感が光っている。

僕の個人的な嗜好を別にすれば、初期ピチカート・ファイヴとしてのひとつの到達点と見てよい作品だが、同時に田島といういわば「客演メンバー」に負うところの大きいアルバムでもあり、小西としては「次」を模索するスタートラインになったのではないかと思う。彼らはこの後、リミックス・ベストである「月面軟着陸」を経てCBSソニー(当時)を離れ、オリジナル・ラブに戻った田島の代わりに「最終兵器」としての野宮真貴を手に入れることになる。この時期にしか作り得なかった傑作であると言っていいだろう。


女性上位時代  (1991)
女性上位時代

★★★★★
田島貴男がオリジナル・ラブの活動に専念するため脱退、野宮真貴を新しいボーカリストに迎え、レコード会社もCBSソニーからコロンビアに移籍した「第3期」ピチカート・ファイヴの「デビュー・アルバム」。「女王陛下」でも一部試みられ、リミックス・ベスト「月面軟着陸」で導入されていた、サンプリングによるミニマルなドラムループをベースにハウス的なアプローチでアルバム全体をコンセプチュアルに構成しているが、テーマはいうまでもなく「女性上位時代」、イントロデューシング野宮真貴である。

このアルバムではすべてが野宮真貴のボーカルのために組織されている。いや、野宮の「声」のために、と言った方がいいかもしれない。独特の艶と悪戯っぽさを含んだ、しかしそれでいて一切の「情感」を排したプラスティックな声と息。どこにでもいるありふれた女の子の声のようでもあり、どこにもあり得ない人工的な合成音声のようでもある野宮の声こそ、小西が獲得した最終兵器であり、このアルバムはピチカート・ファイヴというコンセプトに最後のピースが音を立ててはまりこんだ瞬間であったのだ。

小西は野宮の声を中心に、どこかサディスティックで超越的な、クレバーでいて俗物的な架空の「野宮真貴」というキャラクターを作り上げ、インタビューやラジオ番組の断片、野宮と窪田晴男とのしりとりまでをカットアップして甘美な「女性上位」というイメージを繰り返し語りかけてくる。個々の曲の完成度の高さは言うまでもないが、それよりもここでは野宮という「理想の声」を手に入れた小西の舞い上がるような歓びと、彼女に捧げた冴えない音楽オタクの暗い情熱の暴発を丸ごと感じるべき。名作である。


sweet pizzicato five  (1992)
sweet pizzicato five

★★★
ピチカート・ファイヴ・フィーチャリング野宮真貴第2弾。前作ではハウスを基調としつつも、野宮真貴という新しいボーカリストのキャラクターを確立するための文学的な仕掛けが多く、音楽以外のモメントも含めたアルバム全体がひとつのコンセプト、作品として構成されていた訳だが、今作ではその音楽的方向性をさらにラジカルに推し進め、極めてダンス・オリエンテッドな作品に仕上がっている。重低音の地響きとミニマルなループの繰り返しが作り出す桃源郷感はドラッグ・アルバムと言っていいかもしれない。

文字通り軽快な「万事快調」の跳ねたリズムと這い回るベースでアルバムは始まる。これからファンキーでグルーヴィなピチカート・ワールドが始まることを予感させるにはぴったりのトラックだ。しかし、陽性のこの曲を頂点として、アルバムはポップな高揚感よりはダンス・アロングなビートに、フロアでの陶酔感を高める方向に向かう。インタールード的な「CDJ」を別にすれば収録曲の大半は6分を超えるサイズで、「曲」として「聴いて楽しむ」範疇を超え、「トラック」として「踊らせる」ことに特化している訳だ。

もちろん個々の曲の作りこみに手抜きがある訳ではないのだが、メロディの起伏やめくるめくアレンジの展開といった伝統的なポップスのダイナミズムはこのアルバムでは封印され、あるいは背後に後退し、陰鬱とさえ言えるミニマルなバックトラックが延々と奏でるストイックな静寂の中のマイルストーンのような役割を果たすにとどまっている。ピチカート・ファイヴのクラブ・ミュージック的側面としての評価は高くても不思議ではないが、僕のような自宅リスナーとしてはあまり聴き返すことのないアルバムだ。


BOSSA NOVA 2001  (1993)
BOSSA NOVA 2001

★★★★
長尺のダンス・チューンを集めたハウス・アルバムだった前作から一転、本作は3分前後のコンパクトなポップ・ソングを15曲詰めこんだキャッチーでキュートなアルバムとなった。プロデュースにフリッパーズ・ギターの小山田圭吾を迎え、化粧品のCMで使われてスマッシュ・ヒットとなった「スウィート・ソウル・レビュー」を収録。野宮真貴をボーカルに迎えた第三期のピチカート・ファイヴとしてはおそらく最もオーソドックスなポップ・アルバムのフォーマットに則った作品だと言って間違いないだろう。

中でも「マジック・カーペット・ライド」の美しいまでに絶望的な歌詞と流麗なストリングス、中期ビートルズからのあからさまな意匠の剽窃、単純なようでいて奥の深いメロディの運びが織りなすサイケデリックなトリップ感は、前作で志向されていたアシッドでプラスティックなグルーヴ感とは異なった、ポップの本質を雄弁に指し示している。この曲を大音量で聴いて、最後にピッコロ・トランペットの旋律を乗せたアウトロがフェイド・アウトして行くとき、ポップとは何かがおぼろげに見える気さえする。

しかし、ほぼ完璧に見えるこのアルバムにももちろん問題はある。ラストに置かれた「クレオパトラ2001」の小山田的なメロディの違和感はともかくとしても、ここでは小西と高浪の見ているヴィジョンが微妙にずれ始めているのに気づかざるを得ない。おそらくはピチカート・ファイヴをひとつのアート・フォーマットとして意識し始めた小西に対し、あくまでメロディからのアプローチで曲を構築するかのような高浪のソング・ライティングは明らかにベクトルが異なる。結果的に高浪が参加した最後の作品となった。


overdose  (1994)
overdose

★★★☆
ポップ・チューンとダンス・チューンがほどよくミックスされ、それほど短いアルバムではないにも関わらず最初から最後まで退屈せずに聴けるよう工夫されたバランスのいいアルバム。シングル「東京は夜の七時」は10分を超える長いバージョンで収録、その他「自由の女神」では高木完のラップをフィーチャー、フランス語のナレーションを聴かせる「レディメイドFM」、「If I were a groupie」では宇野淑子をナレーターに起用するなど、メリハリを意識したコンセプチュアルな構成になっている。

しかし、このアルバムを聴くとそういう小西の意図とは別のところである種の単調さを感じずにはいられない。どの曲も既にこれまでのアルバムに収録されたいずれかの曲の焼き直しのように聞こえてしまうのだ。単調さを回避するために施されたいくつかの仕掛けもどこかで聴いたことがあるものばかりだ。ラップなら「月面軟着陸」で奥田民生を招いているし、ラジオ番組のカットアップは「女性上位時代」で経験済みだ。「If I were a groupie」も「大人になりましょう」を思い起こさせる。

この単調さの理由には高浪敬太郎が前作を最後にグループを脱退したことが挙げられるだろう。その結果、小西康陽はピチカート・ファイヴをひとりで一から十まで思い通りに作り上げるフリーハンドを得た訳だが、それは同時に孤独な作業でもあったはずだ。このアルバムからはその困難さが見えるような気がする。このアルバムを境に、ピチカート・ファイヴは、結局のところ同じネタの使い回し、ラベルだけ違うが中身は同じ洗濯洗剤のような既視感の繰り返しになって行ったように思われる。


ROMANTIQUE 96  (1995)
ROMANTIQUE 96

★★★★
ヨーロピアンでデカダンな雰囲気の漂うアルバム。デュオになって2枚目の作品だが、小山田圭吾からテイ・トウワ、立花ハジメ、福富幸宏、菊地成孔、窪田晴男ら豪華なゲストを迎え、曲調にもこれまでとは微妙に違った広がりを見せている。タイアップ曲も何曲か収められているが、陽性のポップ・チューンは少なく、敢えて生硬なメロディでマイナー調の印象を際立たせた曲が目立つ。短いインタールードやナレーションなどを効果的に挿入し、アルバム全体をドライブして行く手法そのものは従来通りだ。

セルジュ・ゲンズブルがブリジット・バルドーに書いた「コンタクト」のカバーでは野宮がフランス語で歌う。シャンソン、ラテン、アコースティック・バラード、ハウス、そして歌謡曲。ここにないのは「ロック」の暑苦しいやかましさだけだ。だが、その「やかましさ」の不在をさまざまな話法で埋め尽くそうとする過剰さは実のところロックそのものだと言っていい。ヨーロピアン・マイナーを基調にした「秘密の花園」から「キャットウォーク」へのシークエンスはこのアルバムのハイライトだろう。

だが、その鮮やかな話法の魔術もさすがに使い回し感が隠せない上に、今日の耳で聴けば特にハウス系のバックトラックにいかにも時代的なイディオムが見えてしまう。野宮の唯一無二の声の力と、小西のオーガナイザーとしての資質が奇跡的な婚姻を遂げたのがこの時期のピチカート・ファイヴの本質だとすれば、早くもそれがある種の自家中毒に陥りつつあることが伺われる。「めざめ」や「悲しい歌」のようにメロディ・メイカーとしての小西の力が素直に表現された曲が結局のところいちばん美しい。


HAPPY END OF THE WORLD  (1997)
HAPPY END OF THE WORLD

★★★☆
もう何というかこの辺になるとアルバムごとの区別もつきにくくなる。それはもちろん僕がこの頃のピチカート・ファイヴのアルバムを一所懸命聴いていなかったこともあるのだが、アルバムの作り方が完全にパターン化してきて、アルバム全体の構成とかアクセントのつけ方そのものが同じネタの使い回しになっていることは否定できない。このアルバムで目につくのはシンバルやスネアの異常な強調に端的に見られる過剰性だ。ある意味、普通の曲がほとんどないやりすぎ感がここでのキーになっているのではないか。

例えば「ナレーション系」とでも呼べそうな「PORNO 3003」はかつての「大人になりましょう」や「if i were a groupie」をさらに先鋭化させたような曲だが、メディテーション・テープを模したナレーションが10分も延々と続くのである。やりすぎである。どういうリスナーがこれを喜んで聴くのか分からないが、小西は既に「聴いて楽しい」という単純なポップ・ミュージックの公式からはかなり離れた地平に自らを運んでおり、何からの意味で評価は高くてもアルバムとして素直には楽しめない傾向が見られつつある。

歌謡曲をモチーフにした「モナムール東京」もしつこいまでにべったりしたアレンジと、普通の歌謡曲なら絶対ここまでやらないくらいくどい野宮の語りで、歌謡曲を超えた新しい何かになっている。もちろん小西の狙いはその「超えちゃう感」にあるんだろうが、それが聴いていて楽しいか、繰り返して聴きたいかと問われると僕ははっきりノーである。偉大なる自家中毒。アルバムの最後で小西が絶叫しているのに救われるが、純粋に楽曲として楽しめるのは「私の人生、人生の夏」くらいか。これ入れるのはズルい。


the international playboy & playgirl record  (1998)
playboy & playgirl

★★★★
細川俊之まで担ぎ出した小西康陽の大真面目な悪ふざけ。初回盤は箱の中にポストカードやメンコや3分間写真まで入っていて保管に困った人も多かっただろう。またしてもピチカート・イディオムの繰り返しではあるが、このアルバムではサウンド・コラージュや謎のインスト、ナレーションものなどの「仕掛け」はミニマムに抑えられており、意外とポップ・オリエンテッドというか真面目にひとつひとつの楽曲、メロディにきちんと向かい合っている印象を受ける。分かりやすい「歌もの」が多い。

もちろんバック・トラックのアシッドな感じやアレンジの過剰さ、饒舌さにはピチカート・ファイヴ後期の小西特有の手癖が頻繁に顔を出し、決して一筋縄では行かないタフさは十分このアルバムでも楽しめるのだが、その一方で素直に口ずさみたくなる(実際にはメロディが複雑なので口ずさむのは難しいのだが)曲がきちんと用意されている。特に「大都会交響曲」から「テーブルにひとびんのワイン」へのシークエンスは、このバンドの音楽的な出自を思い起こさせる出来。小西の音楽への信頼を。

そうして僕たちはピチカート・ファイヴというユニットが小西康陽の根の暗い復讐だったことに思い当たるのだ。美しい音楽の、その美しさによるすべての美しくないものの大量虐殺であったことに。このアルバムの美しさは美しくないあなたに対する死亡勧告である。小西のダンス・トラックに踊らされていた僕たちは、このアルバムで再び野宮のプラスティックな声に耳を傾け、完璧な武器としての音楽を聴く。このアルバムを聴いて憂鬱にならないとしたら、あなたにはピチカートを聴く資格がない。


PIZZICATO FIVE  (1999)
PIZZICATO FIVE

★★★★☆
なぜかイタリアがモチーフになったセルフ・タイトル・アルバム。おそらくピチカート・ファイヴはこのアルバムで終わるはずだったのではないかと思われる。前作までのフォーマットを踏襲しつつも、このアルバムで彼らは音楽そのものの持つダイナミズムを再び獲得している。端整で丁寧に作りこまれたメロディとそこに乗せられたシニカルで絶望的な歌詞。だれも聴いていないことを確かめてから、小さな声でそっと真実をつぶやくような寡黙さと雄弁さの同居。手を止めて聴き入らせる訴求力をこの作品は持っている。

前作までの数作にはどうしても拭いきれなかった「全力を出しきっていない感じ」、余力の範囲で似たような意匠を使い回している単純再生産的なマス・プロダクト感はここでは明らかにグッと抑えられ、「レディメイド」の名とは逆に出し惜しみのないオーダーメイド感がこのアルバムを彼らの作品の中でも久しぶりにシリアスで個別的な一枚にしている。おそらくは小西の個人的な世界観のようなものがここにはにじみ出しているのだろう。ギミックはミニマムに抑えられ、小西の資質がそのままこの作品の力になっている。

その意味で、名前のないアルバム、セルフ・タイトルとなったこのアルバムからは小西の自信とある種の覚悟がはっきりと聞き取れる。「眺めのいい部屋」から「戦争は終わった」、「20th Century Girl」から「連載小説」といった流れには何かが取り憑いたような、あるいは逆に憑き物が落ちたような覚醒感と凄みがある。小西が言いたいことはすべてここで言い尽くされているはずだし、だから小西はこの次の「さ・え・ら ジャポン」に行くことができた。戦争はたぶんなくならない。涙すら出ない見事なフィナーレ。

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さ・え・ら ジャポン  (2001)
さ・え・ら ジャポン

★★★★☆-->
ピチカート・ファイヴの本編は前作で終了しており、21世紀に入ってリリースされた本作はおまけというか番外編のようなものだと解釈するべきだろう。ピチカート・ファイヴは本作を最後に解散しており、本作はある意味フィナーレにふさわしい華やかさを備えた重厚な作品で、ゲストも多彩で豪華であるが、小西康陽の音楽そのものを聴くというよりはピチカート・ファイヴというコンセプト、アート・フォームとしてのピチカート・ファイヴの究極型を目指したアルバムだと言うことができるだろう。

小西の手によるポップ・ソングを野宮が歌うというスタイルの曲はほぼ皆無で、大半はゲストをボーカルに迎え、曲も「一月一日」や「君が代」から「ポケモン言えるかな?」まで、小西のオリジナルにこだわらずアルバム全体としてのコンセプトを構築して行く。そしてそのアルバムのコンセプトとは「日本」であり「東京」。それも外国人の目から見た日本であり、かつてあり得た昭和期の日本であり、ポケモンであり、すき焼きであり、謎の国であると同時に普通の国である日本と言う国がテーマだ。

そしてそれは小西の音楽性を正当に評価できず、徹底的に無視したあげく、小西がだれにもケチのつけようがないポップ・ソングをチャートに送り込んで海外でも高い評価を受けると、今度は手のひらを返したように「渋谷系の元祖」に祭り上げる日本のメディアのいい加減さ、定見のなさに対する強烈な逆襲、最後っ屁に他ならない。渋谷系でもお洒落でもない、ただ、すべてを対象化し相対化して行く小西の恐ろしいまでの醒めた視線。最終作にして、ヤツらを当惑させ、困らせるための名作、問題作。



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