logo フリッパーズ・ギター 小沢健二 Cornelius




three cheers for our side
海へ行くつもりじゃなかった

フリッパーズ・ギター

POLYSTAR
H30R-10004 (1989)

■ ハロー/いとこの来る日曜日
■ ボーイズ、トリコに火を放つ
■ すてきなジョイライド
■ コーヒーミルク・クレイジー
■ 僕のレッド・シューズ物語
■ 奇妙なロリポップ
■ ピクニックには早すぎる
■ サンバ・パレードの華麗な噂が
■ 恋してるだとか好きだとか
■ さようならパステルズ・バッヂ
■ やがて鐘が鳴る
■ レッド・フラッグ
オレンジ・ジュースの曲名から取られた英文タイトルの「Three Cheers For Our Side」は「僕らのもったいぶりに万歳」。アノラックからパステルズ・バッヂをはずせ、だの、ヘアドレッサーは男の子じゃなくちゃいけない、だの、高い山ではまだ激しく雨が降っている、だの、下手くそな英語で次から次へと歌われるネオアコ・オマージュ。アズテック・カメラ、キング・オブ・ルクセンブルグ、ジョセフK、ペイル・ファウンテンズ…。サロン・ミュージックの吉田仁がプロデュースしたデビュー・アルバムがこれである。

もちろんこれがただの学園祭のお楽しみ的バンドなら彼らのブレイクはなかった。自らの特権的な趣味性に自閉した内輪受けなら小沢健二もコーネリアスも日本のロック史に名前を残すことはなかったはずだ。このアルバムが、それ自体は他愛のないネオアコ・オマージュであっても、結果としてその先につながる音楽的冒険への扉となり得たのは、ひとつには小沢と小山田の非凡なソング・ライティングによるものであり、さらには彼らの選曲家としての確かなコラージュ・センスと、そして深い愛情によるものに違いない。

ここで彼らはまるで好きな女の子に秘密のコレクションをひとつひとつ説明する少年のように、瞳をキラキラさせながらかけがえのない時間を歌い尽くしている。往々にしてそれを聴く女の子は彼の秘密のコレクションのことなんか全然興味はないのだが、ただ、彼の嬉しそうな口調とか、熱を帯びてテーブルの上に乗り出す細い腕とか、そういうひとつひとつに目を奪われているのだ。これはそういうアルバムであり、我が国において不遇だったギター・ポップが日の目を見るきっかけにもなった愛すべきピース・オブ・ラブ。




Camera Talk
フリッパーズ・ギター

POLYSTAR
PSCR1008 (1990)

■ 恋とマシンガン
■ カメラ!カメラ!カメラ!
■ クールなスパイでぶっとばせ
■ ラテンでレッツラブ
 または1990サマー・ビューティー計画
■ バスルームで髪を切る100の方法
■ 青春はいちどだけ
■ ビッグ・バッド・ビンゴ
■ ワイルド・サマー/ビートでゴーゴー
■ 偶然のナイフ・エッジ・カレス
■ 南へ急ごう
■ 午前3時のオプ
■ 全ての言葉はさよなら
前作に続き吉田仁のプロデュースによるセカンド・アルバム。全曲英語だった前作に対し、本作では全曲日本語詞(インスト2曲を除く)。本作からフリッパーズ・ギターは小沢健二と小山田圭吾の二人組になり、無邪気なネオアコ・オマージュだった前作から、より自覚的、戦略的なポップ・イコンへと進化を遂げた。ネオアコ・イディオムからの借用、剽窃はより明確な意図の元に行われるようになり、自分たちがそこにつながる存在であることと、それを80年代後半に敢えてリピートすることの意味を明らかにしている。

そうしたネオアコ・イディオムの出典をいちいち数え上げることはしないが(そんな本はいくらでも出ているだろう)、例えば「僕らは古い墓を暴く夜の間に」とか「この気持ちこれ以上何が言える?どう言えるだろう?」とかいった、あまりに感じやすくそれ故に反語や冷笑でしか語ることのできない言葉がこのアルバムにおける彼らの真摯さと愛情の証だと僕は思う。自らにとって最も大切なものを消費することで彼らは今までだれも作ることのなかったアナーキーな青春のロマンチシズムを1枚のアルバムに閉じこめたのだ。

小沢健二と小山田圭吾という得難い二人の才能が出会い、作り上げた最も幸福な時期の最も幸福なアルバムがこれであり、ここでの二人のビジョンは恐ろしいほど一致している。繰り返し歌われる「遠くまで見える」感覚。研ぎ澄まされ、どんなごまかしやインチキも一瞬で看破してしまう痛いほど冷ややかな覚醒。どんな男の子もある一時期だけ持ち得るそんな特権的な視線を日本で最初に焼きつけたアルバムだと言っていいだろう。「分かりあえやしないってことだけを分かりあう」、その営為に彼らは名前をつけて見せた。




ヘッド博士の世界塔
フリッパーズ・ギター

POLYSTAR
PSCR1024 (1991)

■ ドルフィン・ソング
■ グルーヴ・チューブ
■ アクアマリン
■ ゴーイング・ゼロ
■ スリープ・マシーン
■ ウィニー・ザ・プー・マグカップ・コレクション
■ 奈落のクイズ・マスター
■ 星の彼方へ
■ 世界塔よ永遠に
サード・アルバムにして結果的にラスト・アルバムとなった。当時イギリスで盛り上がっていたハウスに大きな影響を受け、全編サンプリングで作り上げた問題作である。相変わらずビーチ・ボーイズからマイ・ブラディ・バレンタイン、プライマル・スクリームまでを拝借して来てしまう臆面のなさは清々しいが、それに比例して歌詞の覚醒感も飛躍的にレベル・アップしており、確かにここまで来たらあとはもう解散するしかなかったのかなとも思わせる完成度の高さというかもう用意されたトラックは走りきった感じだ。

そう、ありとあらゆるものが恐ろしいスピードで消費されてしまう高度情報資本主義社会にあっては、それを上回るスピードで走ることだけが消費されないための唯一の方法だけど、それって100m走のスピードでマラソンを走り続けるようなものだから、どこかでこっちから一方的に「や〜めた」と言ってやるしかないのだ。考えてみれば小沢と小山田はこの「や〜めた」を言い出す時期についても完璧に同期していた訳だろう。コンテンポラリーなブリティッシュ・インディーズをモチーフにしながら彼らは終わりを探していた。

少しずつ死んでゆくことの認識。「言葉などもう無いだろう」と歌うこのアルバムで、彼らは明確にゲームの終わりを意識している。結局もうどこにもオリジナリティなんてものはない場所で、ただ既に提示されたものの順番とか組合せをやり替えることでどれだけ新しいビジョンを見せられるかというゲームの終わりだ。そこでやり尽くせることはやり尽くされて、もうフリッパーズを超えるそんな名付けのゲームの達人は出ないだろうというのがこのアルバムの結論だ。「そしてずっと前から 僕らここにいたのだと思う」。




犬は吠えるがキャラバンは進む
小沢健二

EASTWORLD
TOCT-8183 (1993)

■ 昨日と今日
■ 天気読み
■ 暗闇から手を伸ばせ
■ 地上の夜
■ 向日葵はゆれるまま
■ カウボーイ疾走
■ 天使たちのシーン
■ ローラースケート・パーク
「もう間違いが無いことや もう隙を見せないやりとりには 嫌気がさしちまった」小沢健二のファースト・ソロ・アルバム。ここで歌われるのはいきなり生の本質に降り立とうとするような生々しさ、性急さであり、もっとまっすぐストレートに「心を動かすもの」に切り込んで行きたいという小沢の意志に他ならない。その高い文学性と衒いのないコミュニケーションへの希求でこのアルバムは高い評価を受けた。まっすぐに見据えることで、つまらない皮肉屋たちは「街で深く溺れ死んで行く」。

だが、そうした生に対する小沢の肯定が僕たちの生活に現実性を持ち得るとすれば、それは小沢が人間同士のコミュニケーションの限界に一度は絶望しながら、それでもなおどこかに残されたはずの「信じるに足るもの」を、自分の内側に、まるで目を閉じなければ見ることのできないまぶたの裏の残像を見ようとするように探しているからだ。小沢がもし無批判に人間の善良さや生きることの素晴らしさという題目に依拠しているだけなら、その言葉が僕たちのどこかを打つことはなかったはずだ。

そのことは本作の白眉とも言える「天使たちのシーン」の、「神様を信じる強さを僕に」という歌詞に表れている。この歌詞は「人を信じない強さを僕に」ということと同値だ。そのような本質的な絶望の上に立つことなしに、小沢はフリッパーズ後を始めることができなかったのだ。ほとんど躁状態のようなセカンド・アルバムを経て再び文学性の深奥へと向かう小沢は、その移り気や少年性や屈託のない笑顔や饒舌と裏腹に、初めからずっと孤独だったしこれからもずっと孤独なのだと僕は思う。




THE FIRST QUESTION AWARD
Cornelius

POLYSTAR
PSCR-5080 (1994)

■ 太陽は僕の敵
■ (You Can't Always Get)
 What You Want
■ Silent Snow Stream
■ Perfect Rainbow
■ Bad Moon Rising
■ Cannabis
■ Raise Your Hand Together
■ The Back Door To Heaven
■ Theme From First Question Award
■ The Love Parade
■ Moon Light Story
今にして思えば小山田圭吾はここを通過することなしに「次」へ行くことができなかったのだろう。半年前にリリースされた小沢の「犬」がすべてのポップの焼け跡にもう一度言葉と音楽を積み上げ直す試みであったとすれば、このアルバムはフリッパーズ・ギターが軌道上にそのまま放り出したものを回収し大気圏で燃え尽きさせる営みであったと言えるのかもしれない。その意味でこのポップさは初めから一度限りのものであったのだろう。

アルバムに先だって連打されたシングル『太陽は僕の敵』『PERFECT RAINBOW』『WHAT YOU WANT』はいずれもこれでもかとキラキラをブチこんだポップ・チューン。意匠はそれぞれに異なるが、それを古今の洋楽カタログからもはや明示的に剽窃してくる手法自体はまさにフリッパーズ・ギターそのもの。それが単なるマッシュアップに終わらないのは、小山田の切り貼り力が尋常でなく、それ自体がひとつの批評として成り立っているからだ。

リスナーとしての批評性を作品として再構成する行為が表現として認知されたのが渋谷系の本質ではなかったかと思うのだが、その後、単なる雰囲気モノも含めて粗製乱造され拡張されて行くその概念の中核のひとつとしてこの作品を位置づけることができるのだとすれば、意匠を超えた小山田のソングライター、メロディ・メイカーとしてのナマの資質が、ここに最も屈託なく留保なく惜しげなく詰めこまれているからではなかっただろうか。




LIFE
小沢健二

EASTWORLD
TOCT-8495 (1994)

■ 愛し愛されて生きるのさ
■ ラブリー
■ 東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー
■ いちょう並木のセレナーデ
■ ドアをノックするのは誰だ?
■ 今夜はブギー・バック
■ ぼくらが旅に出る理由
■ おやすみなさい、仔猫ちゃん!
■ いちょう並木のセレナーデ(reprise)
このアルバムの発売時に小沢は26歳。ここにあるのはまるで躁状態のようにアッパーな恋愛賛歌であり、少年性全開の「今ここ」の全肯定であり、そしてそれらが遠からず失われる予感である。もう半ばヤケクソとしか思えないくらいボーイズ・ライフがキラキラ輝く瞬間のことばかりを歌い続け、王子様と仔猫ちゃんのストーリーが繰り返し語られる。前作のシリアスで内省的なトーンからは想像できないこの変貌はどこからきたものなのか。

それはおそらく、真実に近づくこと、生の意味に近づくことが、結局のところ自分の曖昧な五感と理屈の通らない感情のフィルターを通した誤解の総体に過ぎないということに小沢自身が気づいたからなのだと思う。ここにあるこのあふれるような喜びとか切るような痛みとか灼けるような苛立ちとか、そのようなメディアとしての即物的な身体反応そのものがまさに真実であり、僕たちが信じるべきものはそれ以外にあり得ないということに。

この時の小沢はおそらく一種の悟りともいうべき状態で、まるでラリっているような全能感、多幸感の只中にあったのではないかと思う。そのような「遠くまで見える」感覚を求める営みは、フリッパーズの頃から、『天使たちのシーン』を経て、どんどん求道的になって行くこの後の活動にも通底するのだが、それが次第に息苦しいほどの密度に自閉して行く前の一瞬、奇跡的に景気のいい「全開放」として結実したのがこのアルバムなのだ。




69/96
Cornelius

POLYSTAR
PSCR-5420 (1995)

■ 69/96 A Space Odyssey
 -Prelude (In Atami)
■ Moon Walk
■ Brand New Season
■ Volunteer Ape Man (Disco)
■ 1969 (Case Of Monsieur Kamayatsu)
■ How Do You Feel?
■ 1969
■ Last Night In Africa
■ 1996
■ Blow My Mind
■ 69/96 Girl Meets Cassette
■ Concerto No.3 From The Four
 Seasons (Pink Bloody Sabbath)
■ Heavy Metal Thunder
■ Rock/96
■ World's End Humming
 -Reprise (in Hawaii)
前作がフリッパーズ・ギターの残滓を大気圏突入で燃やし尽くす試みであったとすれば、本作はおそらくその中で最後に燃え残った核の部分に目を凝らしながら、方法論としての批評性を先鋭化させようとしたアルバムだと言えるかもしれない。トッド・ラングレンの「A Wizard, A True Star」のように、さまざまな音楽の断片を足したり引いたりしながらポップ表現の限界がどこにあるのかを見極める旅に、小山田圭吾はいよいよ乗り出した。

ここでその手がかりになったのはヘヴィ・メタル。伝統的なハード・ロック、ヘヴィ・メタルのサンプルが気前よくブチこまれ、そうした音楽独特の様式美や大仰さをモチーフにしながら再構成された作品は、面白く、ポップ表現の地平を探る意味で示唆に富み、そして何より単純にカッチョいい。ヘヴィ・メタルを再起動して様式の背後にあるロック音楽としてのリアルさを喚起した手法はメタラー側からも評価されて然るべきものだと思う。

電子機器に必要不可欠な希少金属は、不要になった古い電子機器の中に少しずつ埋蔵されていて、そうした産業廃棄物を都市鉱山と呼ぶのだが、このアルバムは都市鉱山を採掘して最新型の電子機器を組み立てるような音楽。ただし、通奏低音のようにアルバムの骨格を最終的に裏書きし、下支えしているのは、ディスト―ションをかけられた甘いボーカルや、ラウドなギターのリフに乗せられる美しいメロディのロマンチシズムに他ならない。




球体の奏でる音楽
小沢健二

EASTWORLD
TOCT-9500 (1996)

■ ブルーの構図のブルース
■ 大人になれば
■ Ale?
■ ホテルと嵐
■ すぐに会えるかな?
■ 旅人たち
■ 球体の奏でる音楽
■ みんなで練習を
ピアニストの渋谷毅、ベーシストの川端民生とのセッションで制作した作品。『Ale?』と『みんなで練習を』はNG集的なインタールードであり、実質的には6曲入りのミニ・アルバム。前作「LIFE」や、それに続いて発表した何枚かのシングル(『強い気持ち・強い愛』『さよならなんて云えないよ』『痛快ウキウキ通り』)の強烈な肯定感、多幸感は一気にスロー・ダウンし、曲調はアコースティックで落ち着いたピアノ・ジャズに移行した。

歌詞も都市生活の中のボーイズ・ライフからオーガニックでエコロジカルなエブリデイ・ライフにシフトしており、その後の小沢の音楽的、文学的な遍歴を示唆するようだ。「球体」とは地球のことであり、自らの音楽が自然と共鳴している感覚の表明だろう。しかし、これが小沢の決定的な「転向」かといえばおそらくそんなことはなく、むしろ少年らしい気まぐれとか移り気とかカッコつけに近いものとして聴いた方が素直に腑に落ちる。

とはいえここで小沢が何らかの扉をひとつ開いたことは間違いなく、それは自己言及的な『大人になれば』を聴いても分かる。「LIFE」のタガの外れたキラキラ感に比べれば、スピードや明快さの面で地味に聞こえるのは間違いなく、その分ポップ表現としてのフックには欠ける作品になった。小沢はこの後、何枚かのシングル(『ある光』の覚醒感は必聴)を発表してシーンから姿を消す。結果として小沢の20世紀最後のアルバムとなった。




FANTASMA
Cornelius

POLYSTAR
PSCR-9107 (1997)

■ Mic Check
■ The Micro Disneycal World Tour
■ New Music Machine
■ Clash
■ Count Five Or Six
■ Monkey
■ Star Fruits Surf Rider
■ Chapter 8 -Seashore And Horizon-
■ Free Fall
■ 2010
■ God Only Knows
■ Thank You For The Music
■ Fantasma
3分から4分ほどの作品を10曲とか12曲並べる標準的なアルバムのスタイルからの離脱を目指した前作では、地球の引力を振りきることができたかどうか微妙なところだったが、その方向性は明確だったし、そのために爆発的な初速が必要だということも学習できた。本作では、ハードディスク・レコーディングというツールを手に入れ、音楽制作が演奏から編集へ移行しようとする時代の変化の最前線でその可能性を模索したアルバムになった。

ここでは物語のための歌詞は既に失われている。小山田の声が聞こえる作品もあるものの、その大半は意味のない言葉の断片とか単なる音節みたいなものにまで還元され一緒に口ずさめるというような意味でのポップ・ソングはもうここにはない。『New Music Machine』や『Clash』『Star Fruits Surf Rider』みたいな「曲」としての体裁を志向した作品でも、その歌詞は限りなく空虚で「何も言わないこと」を自らに課しているかのようだ。

それでは、その代わりに小山田がここでやろうとしたのは何か。それはおそらく、過剰なまでに雑多で脈絡のない音の残滓のようなものを、これでもかと詰めこむことであった。そうやってポップという概念の処理能力、処理速度を超える情報飽和の状態を作り出し、メーターが振りきれた測定不能の「何だか分からないカタマリ」にすることであった。そして、それでもなおそこに残るチャームのかけらみたいなものを僕たちは見つけたのだ。




POINT
Cornelius

POLYSTAR
PSCR-6000 (2001)

■ Bug (Electric Last Minute)
■ Point Of View Point
■ Smoke
■ Drop
■ Another View Point
■ Tone Twilight Zone
■ Bird Watching At Inner Forest
■ I Hate Hate
■ Brazil
■ Fly
■ Nowhere
今作もまた、前作と同様、言葉というものにほとんど依拠せず、音を音として語らしめる中で、ポップ表現として受容されるギリギリの限界を探る実験的な作品になった。しかし、その試行の方向性は前作と正反対である。前作が、とにかく音楽に過剰な情報をブチこんで「何だか分からないカタマリ」にする試みであったとするなら、今作ではそこから不要な音をひとつひとつ剥がし、削り、最後に何が残るかを見ようとする営為だと言える。

薄紙をはがすように音のレイヤーをひとつずつ丁寧に取り去り、最後の最後に、これ以上剥がせばロックがロックでなくなる、音楽が音楽でなくなるというそのギリギリの一瞬を小山田は見極めようとした。その最後に取り去ろうとした一枚の薄紙こそがポップというものの本質とどう関係するのか、しないのか。21世紀に鳴らされるべきポップ表現とはいったい誰の何に訴えるのか。それを検証しようとした小山田の誠実さがこのアルバムだ。

あるいはそれはすべてをいったんゼロ・リセットした後に、最低限必要なものだけをひとつひとつ丁寧に、精緻に積み上げて行くプロセスだったのかもしれない。まあ、どちらでも同じようなものだが、何より興味深く感慨深いのは、そこにおいて人の声がまだ不可欠な構成要素であるという認識だ。このアルバムで発される声は、まるで人工知能がひとつずつ言葉を獲得するプロセスのように原初的な驚きと喜びに満ちている。重要な作品だ。




Eclectic
小沢健二

EASTWORLD
TOCT-24711 (2002)

■ ギターを弾く女
■ 愛について
■ 麝香
■ あらし
■ 1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)
■ ∞(inifinity)
■ 欲望
■ 今夜はブギーバック/あの大きな心
■ bassline
■ 風と光があなたに恵むように
■ 甘い旋律
■ 踊る月夜の前に
「折衷的」と名づけられたこのアルバムで、小沢は何を折衷しようとしたのか。『ある光』でアーバン・ブルースへの貢献に言及していた通り、ブラック・コンテンポラリーからの影響を受けたグルーヴィなバック・トラックに乗せて、小沢がここで歌うのは恐ろしく密室的なもののこと。「球体」から約5年、シングル『春にして君を想う』からでも4年のブランクを経て突如カムバックした小沢は、しかし声までが以前とは別人のようだった。

「LIFE」でのもはや強迫観念的なキラキラ感から、「球体」のスロー・ダウンを経て、『ある光』で見せた覚醒感を最後にシーンから姿を消していた小沢は、遠くニューヨークでなぜこんな息苦しく、神経の張りつめた、ある一点に向かって限りなく収斂して行くような隙間のないアルバムを作らなければならなかったのか。そしてその一点とはいったいどこなのか。吸いこんだ息を吐くことすらできないようなこの高まりはいったい何なのか。

この時の小沢が実際どんな状況にあったのかは知るべくもないが、セックスをモチーフのひとつにしたこのアルバムで、小沢は生の実感をより自分の身体に近いところに引き寄せて見せた。セックスはどこまでも私的で密室的な営みであると同時に、オーガズムを通じて世界の解放にも通じる。しかしここで示唆されるセックスは解放や悦びとは対極にある自己目的的なもの。完成度は高いが、風通しの悪さがしんどく神経の疲労を誘う作品だ。




刹那
小沢健二

EASTWORLD
TOCT-25151 (2003)

■ 流星ビバップ
■ 痛快ウキウキ通り
■ さよならなんて云えないよ(美しさ)
■ 夢が夢なら
■ 強い気持ち・強い愛
■ それはちょっと
■ 夜と日時計
■ いちょう並木のセレナーデ
■ 流星ビバップ
なぜかこのタイミングでリリースされたアルバム未収録曲のコンピレーション。シングルを連打していた1995年の『流星ビバップ』『痛快ウキウキ通り』『さよならなんて云えないよ』『強い気持ち・強い愛』など、「LIFE」後のウキウキと覚醒が最もバランスよく同居していた完成度の高い曲を中心に編まれていて、単なるシングルや未収録曲の寄せ集めにとどまらないアルバムとしての強度、説得力があり、この時期の活躍を印象づける。

これらのシングルはもはや入手困難となっており、こうしたコンピレーションとしてリリースされた意義は大きかったが、小沢は1997年から98年にも『Buddy』『指さえも』『ある光』『春にして君を想う』とシングルを連打しており、これらに収録された曲はこのアルバムには一切収められていない一方で、収録わずか9曲の中に『いちょう並木のセレナーデ』のライブや『流星ビバップ』のカラオケが含まれているのには正直首をかしげた。

この選曲にはおそらく小沢の意志が反映されているはずで、特に重要なステートメントであるはずの『ある光』が敢えて収録されなかったことは示唆的だ。それは、『ある光』が「Eclectic」後の小沢にとっても、触れればまだ手に血がつく生々しい傷だということなのではないかと僕は思う。このアルバムにも未収録の曲は10曲あり、それらを聴けば、小沢がこのアルバムに何を封印しようとしたかが逆説的に分かるような気もしたりして。




毎日の環境学
小沢健二

EASTWORLD
TOCT-25919 (2006)

■ THE RIVER
■ VOICES FROM WILDERNESS
■ ECOLOGY OF EVERYDAY LIFE
■ JETSET JUNTA
■ THE SEA
■ SOLO LE PIDO A DIOS
■ SHADOW WORK
■ SLEEPERS AWAKE/MATHRIMBA
申し訳ないけど、何度聴いても僕にはこれが何なのかよく分からない。小沢健二がアンチ・グローバリズムに傾倒して行くのと並行して作られた作品ではないかと思われ、そのことはアルバム・タイトルや曲名などからも何となく察せられはするものの、それがこの音楽とどう結びついているのか僕には分からない。というかそもそもこの音楽自体が、僕にとって何の切迫感もない、無難で上品なラウンジ・ミュージックにしか聞こえないのだ。

内容的にはブラック・コンテンポラリーをベースにしたバック・トラックに、マリンバやクラリネットなどが乗るインストルメンタルで、小沢の声はまったく入っていない。前作で「う〜ん」て感じだったところに、ほぼ何のパブリシティもなくこれがリリースされたので戸惑いは必要以上に大きかった。些細な周辺情報をつなぎ合わせて深読みするしかなかったが、そうするほどの作品でもないと思ったし、もはやそこまでの興味もなかった。

それは小沢が敢えて意図したことだったのか。もはや小沢は、僕たちのクソったれでそれだからこそ生きるべき日常とは引っかかりのない遠い世界に行ってしまったのだなと感じた作品。この時の失望のせいで、2010年の復活ライブにも行きたいとは思わなかったし、今さら何言ってんだ的な感じしかなかった。今となっては位置づけに困惑する作品だが、小沢の資質は、むしろこういうステートメントの方に素直に表れているのかもしれない。




SENSUOUS
Cornelius

Warner
WPCL-10367 (2006)

■ Sensuous
■ Fit Song
■ Breezin'
■ Toner
■ Wataridori
■ Gum
■ Scum
■ Omstart
■ Beep It
■ Like A Rolling Stone
■ Music
■ Sleep Warm
この宇宙にある万物はもれなくたかだか100個程度の元素からできているように、音楽もまた周期的な空気の震えに過ぎなくて、それなのにそれが響き合い、ひと連なりになって一定の時間を満たすことで僕たちの中に何かを喚起する。それは元からそこにあったものなのか、あるいは今新しく生まれたものなのか。音楽を微分してそれを構成する元素にまで至ろうとする試みはここでも続く。そしてそれはますますストイックになって行く。

ここでは言葉さえ音節単位にまで分解され、コラージュのように組み合わされて再構成される。小山田は音楽を愛しているが信用していない。いったい自分がなぜここまで音楽を愛してしまうのか、いったい音楽は何からできているのかを知ろうとしている。おそろしく覚醒した科学者のような視線と、どうしようもなく音楽を憧憬する精神とが同時に存在し、対峙し、拮抗する中から、音楽そのものを新しい高みに運んで行く、止揚である。

音の構成要素をどんどん細かく分割して行きながら、そこで鳴らされる音楽はあくまで記名的なもの。実験的でありながらチャーミングでロマンチックなのが小山田圭吾という人の資質と才能の豊かさを示している。聴いて楽しいもの、美しいもの、人間の心のうちに何かの風景、光景を喚起するもの、それを「音」と「音楽」を隔てて行く契機だとすれば、小山田はその境界に立ち今も「アナーキーな青春のロマンチシズム」を探している。




MELLOW WAVES
Cornelius

Warner
WPCL-12660 (2017)

■ あなたがいるなら
■ いつか / どこか
■ 未来の人へ
■ Surfing on Mind Wave pt 2
■ 夢の中で
■ Helix / Spiral
■ Mellow Yellow Feel
■ The Spell of a Vanishing Loveliness
■ The Rain Song
■ Crépuscule
肉声さえも極限まで分割し、最小単位の構成要素に還元しようとした前作までの試みから11年ぶりに届けられたコーネリアス名義のオリジナル・アルバム。音楽が何と何からできているのかを目を細めるようにして見極めようとする基本的な態度はまったく変わらないが、ここでは小山田の興味が再び自らのボーカル、声というものに向かっている。微分の果てにぐるっと一周してたどり着いたのが「歌モノ」の世界だというのは示唆的である。

極限まで夾雑物を削ぎ落としたバック・トラックに、小山田の鼻にかかった独特のボーカルが乗ることで、そこにはある種の緊張を伴った「歌2.0」みたいなものが生成されている。「歌2.0」と普通にノリのいい伴奏に乗せてアイドルが歌う「歌1.0」との間には断絶がある。まるで人の声が言葉をメロディに乗せる「歌」という営みをゼロから「再発明」したかのような音楽。歌というものはこうでもあり得るということを示そうとする試みだ。

しかし、ここでもまた顕著なのが、そうした実験性のようなものをそれ自体ポップ表現として商業的に流通させてしまう小山田の表現者としての資質であり力量。歌モノとはいえ「歌1.0」の世界からすれば全然「ヘンな歌」なのに、聴いているうちに「歌ってこういうものだったかも」と思わせてしまう通用力はメロディメーカーとしての才能なのか、サービス精神なのか。『夢の中へ』のフットワークの軽いユーモアがいい。名作と言いたい。




So kakkoii 宇宙
小沢健二

Universal
TYCT-69163 (2019)

■ 彗星
■ 流動体について
■ フクロウの声が聞こえる
 (魔法的オリジナル)
■ 失敗がいっぱい
■ いちごが染まる
■ アルペジオ
 (きっと魔法のトンネルの先)
■ 神秘的
■ 高い塔
■ シナモン(都市と家庭)
■ 薫る(労働と学業)
このアルバムについて考えるということは、僕にとって小沢が「いなかった」20年の歳月について考えることと同義だ。もちろんその間も小沢はただ漠然と日々を過ごしていた訳ではないのだろうし、実際インスト・アルバムを発表したり、時折思い出したようにライブをやったりしていた。しかしそうした活動に込められたアンチ・グローバリズム的なメッセージは、糊口をしのぐことで精いっぱいの30代、40代の僕にはまるで響かなかった。

2017年の『流動体について』での突然の復帰からこのアルバムへの流れは、もちろん嬉しくはあったが、僕にとっては今ひとつ腑に落ちないというか、「どの辺に収納すればいいのかよく分からない」というのが正直なところ。ここで歌われることの「本当さ」やその強度、密度はもう「#ozkn is comin' back!!」くらいの勢いで全力肯定するのだが、ではそれで小沢のいなかった20年がなかったことになるかといえば、そんなことはない訳で。

それでも、どんな文学よりも濃密な「生の核心へのアクセス」を、だれにも聞きやすいポップ・ミュージックのフォーマットに落としこんで供給する方法論は小沢以外には実践し得ないこと。目に見えて窮屈になりつつある言論空間の中で、党派的なものに絡め捕られないようにしながら「本当のこと」を流通させる試みは、彼のツイートにも顕著だが、それを今は、ファンとしてより世代の同志として並走するのが正しいのかと思ってみたり。




夢中夢 - DREAM IN DREAM
Cornelius

Warner
WPCL-13489 (2023)

■ 変わる消える -Change and Vanish
■ 火花 -Sparks
■ TOO PURE
■ 時間の外で -Out of Time
■ 環境と心理 -Environmental
■ NIGHT HERON
■ 蜃気楼 -Mirage
■ DRIFTS
■ 霧中夢 -Dream in the Mist
■ 無常の世界 -All Things Must Pass
ここにはいくつかの試みが重層的に構築されている。まず一聴して印象に残るのは(前作から続いて)「歌」や「声」に対する興味とでもいうべきものである。人が歌うということに対してもちろん絶対的な信頼があるわけではないが、一方で人の声が単に「音」のひとつとして他の楽器と並列に扱われているわけでもなく、人の声が介在することによって音楽が決定的にありようを変えることへの興味としかいいようのないものがそこにある。

それは『火花』『環境と心理』といったポップ・チューンだけではなく、『時間の外で』や『DRIFTS』『無常の世界』などの、歌というよりは声や言葉が音楽と共鳴し合って意味がほどけて行くようなタイプの曲でより顕著だ。音楽とはどのようでなくてよいか、あるいは音楽とはどのようであってよいか。そしてそこにおいて人間の声とはどのようにしてどんな役割を果たすのか。小山田はここでそうした問いに真面目に答えようとしている。

そして重要なのは、一方で、そうした試みが商業音楽として多くの人に届く前提でなされていることである。難解な実験音楽ではなく、人に聞かれ、人に口ずさまれることを企図しながら、サウンドスケープと人の声との親密な関係がどこから始まりどこで飽和するのかを問う音楽。そう思って聴けば、インストさえもが「たまたま人の声の入っていない歌」に聞こえてくるし、それは『霧中夢』に挿入される「Dreams」という女声で明らかだ。



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