logo 猫と五つ目の季節


■猫と五つ目の季節
■山田稔明
■2015年11月
■mille books

山田の書く曲には猫が多く登場する。ある時は物語の主役として、またある時は風景の片隅にひっそりと。あまりにも自然に描かれているので、改めて聴き返して「あ、この曲にも猫がいる」と「発見」することもしばしばだ。これはそんな、山田と猫の関わり、いや、山田とその運命的な愛猫ポチとの物語である。

一応小説の体裁はとっているが、主人公は山田時生という鳥栖から上京してきたミュージシャン。そのキャリアもゴメス・ザ・ヒットマンからソロという山田稔明自身の歩みと重なる。登場人物の名前こそ微妙に置き換えられているものの、実際には山田自身の経験をほぼそのまま写し取った一種の私小説と考えていいのではないかと思う。

ここに書かれているのは山田がまだ2歳だったポチをもらい受け、10年以上の歳月をともに暮らし、そしてポチが腎不全で死んでしまうまでの「猫のいる暮らし」のことである。特に猫が好きである訳でもない僕にすれば、そこまでやるかと思う部分もありつつ、しかしそこに愛情を注げる、その一方でままならぬ、生きて動く対象がいるという経験を想像させてくれる達者な筆致は確かなものである。

だが、この物語は単なる猫賛歌ではない。それは、「猫のいる暮らし」が必然的に猫との別れを含んでいることを否応なく思い出させる。それはおそらく人との暮らしでも同じことなのだが、猫の寿命が人よりずっと短いために、「猫のいる暮らし」にはそれは避け難い出来事としてほぼオートマチックに組みこまれている。そして、実際この物語の半分は、ポチが腎不全を病んでからの闘病や死(とその不思議な「再生」)に費やされているのだ。

そこにおいて、山田とポチの関わりはより濃密なものになる。山田はおそらくポチを通して自分を見ている。当たり前だが猫は言葉を発しない。山田がポチから受け取るのは最終的には山田自身の内なる声に他ならない。山田は死に行くポチを懸命に看病する中で、自分の一部が死につつあることに気づいたのだ。山田がそこで直面するのは、我々のモータルな生そのものなのである。

この物語が我々の胸のどこか深いところを打つのだとすれば、それは、この物語が猫の生態を巧みに描写しているからではなく、それが実際のところ山田自身の生のことを書いているからであり、ポチという猫を通して山田が自分の生のありようを自分自身に問うているからである。

上京し、大学を卒業してプロ・ミュージシャンとしてメジャー・デビューするが思うようなセールスを残せず、契約を切られてインディペンデントな活動をするようになる山田自身の歩みが、「猫のいる暮らし」を物差しにして語られて行く。ポチについて語れば語るほど、山田は自分自身について語ることになる。なぜならすべてはポチを通じて語られた山田自身の物語だからだ。

生は、それがモータルであるがゆえに愛おしく、美しい。山田が芳恵さんに、ポチの病状が思わしくないことを打ち明けるシーンの辺りで僕は一度本を閉じ、外に出た。そのまま読み進めれば涙が出てしまいそうだと思ったのだ。

11月初めの秋晴れの夕方で、スーパーマーケットに向かう道のまっすぐその先に傾いた夕陽がまぶしかった。僕は手のひらを額にかざしてその陽を遮りながら、人通りの多い商店街を歩いた。「美しい」と僕は思った。こんな気持ちのいい、あたりまえの夕暮れを、これから僕は何度経験することになるのだろう。美しく、愛おしく、せつない。そして、抱えこんだあらゆる問題にも関わらず、僕は幸福だ、とその時僕は思ったのだ。

世界は祝福に満ちている。それは僕たちのすぐ隣にあって、見つけ出されるのを待っている。しかし、僕たちは時として、最もつらく、最も悲しい経験を通してしかそれに気づくことができない。例えば、愛するものをなくすことによって。これはおそらく山田にとって、書かずには次に進めない類の物語だったのだと思う。善き哉。



Copyright Reserved
2015 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com