logo 最後の家族 / 村上龍


村上龍の小説を読んでこんなにすがすがしい気分になったのは久しぶりだ。なぜかといえば最近の村上龍の小説にはほとんどカタルシスというものがなかったからだ。とても狭い場所に閉じこめられて少しずつ締め上げられるような息苦しさや見ずにすませようとしていた醜悪なものを無理矢理見せつけられているようなイヤな気分だけが残る、そういう後味の悪い小説ばかりが多かったからだ。

この小説も扱っているテーマは暗い。引きこもり、ドメスティック・バイオレンス、リストラ、そして家族の崩壊。だが、ここには救いがある。

僕たちの社会は現代の都市化の進展の中で、伝統的な共同体を崩壊させてきた。それがいろいろな問題を生んできたことは否定のしようのないことだし、そのことについては他の本の感想の中で既に述べてきたと思う。例えば、3世代、4世代が同居する大家族は都市部にはほとんど見られなくなり、両親と子供だけで構成される「核家族」化が取り沙汰されたりもしたが、その局面ではまだ、「両親と子供」が社会生活の最小限の「核」だという認識は共有されていた訳だ。

だが、ここで語られているのはその「核家族」さえもが崩壊の危機に瀕しているということだ。その中心的な葛藤は引きこもりになって暴力をふるう長男と倒産寸前の会社からリストラされる父親との間で発生するのだが、長女と母親もまた、その心は「家族共同体」から離反している。父親だけが「家族みんなで食卓を囲むこと」、「毎朝コーヒーをいれること」という儀式的な「家族」像に固執しているのだ。

だが、その家族共同体の共同性こそが、一人一人の家族の「個」としての自立を妨げているのだと村上は告発する。自分にとって最も重要な決断を他人に委ねることで、自分の生に対して最終的な責任を負うことを回避し、常に失敗したときのための言い訳や責任の「押しつけ先」を確保しながら生きるズルさ、弱さを僕たちはつきつけられる。

「その答えがわかったとき、知美はぞっとした。わたしは、これで自分で決定しなくても済むと思ってほっとしたんだ。自分で決めるということは苦しいことなんだ」

隣家のドメスティック・バイオレンスを目撃した引きこもりの長男は、相談に行った弁護士事務所で女性弁護士に自分の中にあるアンフェアな依存に気づかされる。

「『親しい人の自立は、その近くにいる人を救うんです。一人で生きていけるようになること。それだけが、誰か親しい人を結果的に救うんです』」

答えは自明だ。しかし、「家族」という最後の共同体を放棄し、「一人で生きてゆけるようになる」ことは実際には容易ではない。僕たちの中にはどこまで行っても消すことのできない「弱い心」があり、その「弱い心」は傷の舐め合いのような共依存をどこかで求めているからだ。そうした「弱い心」をも自分自身で引き受け、「自分で決める」苦しさにひとりで立ち向かうためには、強い意志と覚悟が要る。子供の頃からそうするようにしつけられてきた人間にはそれができるのだが、長い間家族という共同体の共同性を疑うことなく過ごしてきた人間にはそれは大変難しいことなのだ。

共同体の崩壊を僕は悪いことだとは思わない。むしろそれは僕たちが「個」というものに収斂するために必要不可欠なプロセスだと思う。問題は僕たちの方に、共同体の崩壊によって必然的にむき出しになる「個」の重さに耐えるだけの訓練が足りないということだ。そういう準備が何もないままに、僕たちは否応なく都会という荒野に放り出されてしまったのだ。

だが、何度も書いているように、僕たちは今から生温かい共同体の中に戻ることはできない。いや、仮にできるとしても僕はそんなことはしたくない。僕たちはこのすべての共同性という幻想がきれいに焼け落ちた世界で、一人で考え、一人で動き、一人で引き受けるための強い「個」を獲得しなければならない。「個」というのは気に入らない人間関係を拒否して閉じこもることとは本質的に別のものだ。その覚悟は重く、その決断は苦い。だがそこにはおそらく気持ちのよい風が吹き抜けていて、この小説がすがすがしいのはおそらくそのせいだ。



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