logo オウム−なぜ宗教はテロリズムを生んだのか / 島田裕巳


オウムはなぜ「殺人教団」になったのか

島田裕巳はオウム事件の渦中で教団への関与が取り沙汰され、大学教授の職を辞するとともに論壇の表舞台から姿を消した宗教学者である。僕はそれ以前からこの人の書く宗教評論をなかなか示唆に富んで面白いものだと思っていたので、彼がそのようないわばスキャンダル中の人物となることを意外に思ったし、彼がオウムやそれに象徴される現代の「精神の危機」について書いたものを読めなくなるのは残念だった。

本書では自身をめぐるそうした一連の騒動についても書かれている。これはこれでスキャンダルというものがいかにでっち上げられて行くものかということの大変興味深い教材なのだが、本書の中心的なテーマはやはりその島田裕巳がオウム真理教という教団をどのように見ているのか、彼らがあのような無差別大量殺人に行き着いたメカニズムはいったい何だったのかということだ。そして、さらにその先にあるのは、そもそもそのような教団が社会に一定の位置を占めることができたのはなぜかという厳しい問いかけであるはずだ。

僕はオウム真理教を根っからの悪人の集団だとは思っていない。彼らは決して人を殺すために集まり、そのために悪知恵を働かせた暴力団ではないし、邪教というのとも少し違う。彼らはあまりにイノセントで無邪気な修行集団であっただけのことではないかと僕は思うのだ。

島田は、オウムの迷走が信者の「事故死」を公表せず隠したところから始まっているのではないかと推測している。オウムはそれを公表しその社会的な責任をとる代わりに、それを隠しその秘密を知る信者を殺害した。そしてそれを正当化する教義を次第に先鋭化させて行った。オウムが「人殺しもあり」のカルト化して行ったのは、決して計画的でもなければ意図的でもなく、成り行きとしかいいようのないなし崩し的な取り繕いでありエスカレーションであったと見る訳だがそれは非常に説得力のある考え方だと思う。

なぜならオウムはもともと計画的に何かを「達成」するような種類の合目的的で機能的な「教団」であるよりは、個人的な解脱を究極の目標にした修行者、信者の「集団」に過ぎず、その集団の構造や意思決定システムは相当幼稚で稚拙なものだったはずだと僕は思うからだ。そこには情況を客観的に分析するとか戦略的に何かを組織するというような「大人の」判断はほとんど働いておらず、彼らの集団としての行動の多くは突飛な思いつきや途方もない思いこみに支配されていたのではないか。

僕は一度大阪駅頭でオウムのパフォーマンスを見たことがある。教祖の面をかぶった信者がトラックの荷台の上で音楽に合わせて奇妙な踊りを披露する姿は、確かに見せ物としては面白かったが率直に言ってまともな宗教団体のすることとは思えなかった。衆議院議員選挙への立候補にしてもそれは何かの根拠ある「勝算」に基づいているというよりは単なる思いつきだったのではなかったか。そのような集団が「殺人教団」と化していった事実には、初めから何らかの合理的な目的に沿って計画的に暴力の組織化を図ったというより、目先の事実を糊塗するうちにいつの間にかのっぴきならない状態になってしまったという説明の方が似つかわしいような気がする。

「終わらない文化祭」

そのような「死の暴走」が可能になった背景には、オウムがひとつの教義を共有しながら共同生活を行う閉鎖集団だったことがあげられるだろう。閉鎖的な集団の中では、普通では考えられないような極論が容易にエスカレートし、疑心暗鬼の中から一種の集団心理が発生しやすい。それが政治思想や宗教思想のようにひとつの絶対的な命題の下に行われるとき、その危険はますます大きなものになる。それは連合赤軍事件を考えても明らかだろう。そこにあるのは、絶対的な「悪性」というよりは人間の弱さに由来する妄想の無限連鎖的、自己増殖的な増幅である。

だが、オウムが我々の目から見れば到底理解不可能な無差別大量殺人に至った背景を本当に理解するためには、彼らの身体感覚や現実感覚を想像してみなければならないだろう。島田が指摘するのは、オウムの信者は必ずしも病苦や貧困といった現実的な困難から宗教に向かった訳ではないということだ。オウム信者の多くは、むしろこの世界に対する漠然とした違和感、現実というものに対する感覚的な嫌悪や疑問から、何かもっと「真実」と呼ぶべきものがどこかにあるはずだと考え、修行を通して解脱を目指すオウムにひかれていったというのだ。

だとすれば、彼らにとって出家生活とは現実から隔絶されたところにある一種のサークルのようなものであり、模擬社会のようなものだったのではないだろうか。国家に似せた省庁制度は決して現実の国家を転覆あるいは支配しようという「野望」の現れではなく、現実の国家とは別のところに話の分かる仲間だけで作った一種のバーチャル国家であり、端的に言ってしまえばそれは単なる大がかりなままごとのようなものに過ぎなかったのではなかったか。

彼ら自身が「教団のワークは文化祭の準備をしているようだった」と言う通り、彼らに現実感は希薄だったに違いない。現世利益を求めるのではなく、自己の解脱を最終目的に集まった信者の集団が、外の社会に対する具体的な感心や想像力を欠いて行くことは容易に理解できる。彼らは「終わらない文化祭」としての修行生活を生きていたのかもしれない。そのような現実感覚の希薄さが、「教団は毒ガス攻撃を受けている」というようなデマを簡単に信じたり、迷いを感じながらもサリンを散布してしまうある種の一途さ、イノセントさの背景にあったはずだ。

「迷える魂」の行方

だが、このように考えるとき、問題はさらに深刻になる。オウムが初めから大量殺戮を目的にした異常な集団であったと考えるなら、オウム事件はそういう特殊な集団が起こした例外的なできごとだと片づけることができる。我々はとにかくオウムをつぶせば取りあえずは安心して日常に戻ることができるようにも思える。しかし、オウムに傾倒した若者たちが感じたこの世界に対する漠然とした違和感や、現実というものに対する感覚的な嫌悪や疑問は、多かれ少なかれ現代社会に生きる僕たちが共有している感覚ではないのだろうか。

島田はその原因を共同体の崩壊に求めている。共同体が崩壊することで、僕たちは複雑でリアルな社会と直に向き合うことを迫られる。その負荷に耐えられない魂は何らかの救いを求めざるを得ない。オウムはそのような「迷える魂」の受け皿になったのだ。

こうした前提に立つ限り、オウムに救いを求めた若者たちは、オウムに入らなかった僕たちと何か質的に異なった存在などではなく、むしろ僕たちとある程度まで同じものを共有し、グラデーション的につながっているのだと言わなければならない。そして、僕たちがそのような迷える魂に対して明快な答えを用意できない以上、オウムをつぶしても第二、第三のオウムが出てくる可能性は否定できない。あるいはオウムだってしばらく雌伏した後、再び組織として危険な存在になるかもしれないのだ。オウムは終わっていない。裁判が進んで仮に麻原彰晃が死刑になったとしても、事件の成り行きがすべて白日の下にさらされたとしても、それらを生んだ「迷える魂」の行き先が示されない限り、それは何の解決にもならない。

だから僕にはオウムが他人事だとは決して思えない。僕だってひとつ間違えばオウムに入っていたかもしれない。あそこにあるのは僕たちと無関係の邪悪な何かではなく、僕たちと極めて近い関係にある何か、あるいは僕たちがこの現実の社会で抱えているものの鏡像とか写像とかいったものなのではないだろうか。だからこそ僕たちはあの事件が起こったとき、何だかとても不吉でイヤなものを見てしまったような気がしたのかもしれない。

残念ながら、僕には現代の「迷える魂」をどのように救済していいのか分からない。共同体を復活せよという意見もあるが、僕はそれには与しないし、そのことは島田も明快に述べている。僕に言えるのは、僕たちはむしろ煩悩の中でこそ生きて行くべきではないのかということだ。世界に対する違和感や現実に対する嫌悪・疑問はあっていい。いや、そんなものをおよそ感じたこともないという人間を僕は信用しない。しかし、僕たちはそこから逃避するのではなく、そんな違和感や嫌悪・疑問と苦闘する中でそういったものと折り合いをつけ、地に足をつけて生きて行くための知恵を身につけるべきではないのか。

もちろん都市化が進み、共同体が崩壊した一種の精神的焼け野原のような場所でそうした戦いを個人的に続けて行くことは容易な作業ではない。島田はこのように本書を結んでいる。

「たしかに、孤独はつらく、苦しい。しかし、私たちは長い歴史を経て、さまざまなしがらみから解放され、はじめて孤独を得ることができた。オウムの人間たちは、その教祖を含め、孤独に耐えられなかったのではないか。私たちは孤独に耐え、その孤独を楽しみながら、自分の頭を使って、これからを考えていかなければならないのである」

自分をナイーブでイノセントだと思っている人に読んで欲しい本だ。



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