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共生虫

● 村上龍・著
● 講談社

引きこもりとか、新興宗教とか、僕は結構近いところにいたと思う。高校までは別に悪くない学校生活を送っていたから登校拒否とかはあまり考えなかったが、大学に入ってしばらくはヤバかった。高校ではそこへ行くだけでオートマティックに濃密な人間関係が存在する「場」が約束されていたが、大学では自分を巡る人間関係を自分自身で自覚的に組み立てるしかない訳で、そこにうまく足場が築けないと自分と社会との接点が極めて曖昧になってしまう。もちろん大学にもよるのだろうが、僕の通っていた大学は一応クラスとかはあるもののそのつながりは極めて緩やかなものであり、必修の語学や体育で週に何回か顔を合わせる程度、それも2回生までだから仲間だという意識もほとんどない。自分自身を社会の中の何かの役割として固定してくれるアンカーとしてはほとんど役に立たない存在だ。

多くの人はサークルなどを通じてそうした環境の中に自分の存在を同定して行くのだろうと思う。だが僕はテニスにもスキーにも興味はなかったし、少しだけやりかけたバンドもすぐにポシャってしまった。僕はそんな日々の中に自分の居場所をうまく見出せずにいたのだ。下宿に一人で住み、だれとも話をしない一日が終わるたび、僕は自分が世界から取り残されて行くのを感じた。僕には世界への入口が分からなかった。「何者かでいようと努力し続けなければすぐに何者でもなくなってしまう世界」。それを都会だというのなら、僕はまさに都会の中で自分のペルソナを見失いかけていた。

そんなときに、キャンパスで優しげな顔をした新興宗教や政治団体の勧誘に声をかけられると僕は心が動くのを感じたものだ。そこでは明確な目的が示され、自分の果たすべき役割ははっきりするだろう。毎日顔を出すべき場所があり、話すべきだれかがいるだろう。自分が何かに参加しているということが目に見える形で理解できるだろう。忙しげな世界の一員として僕は新しい属性を手に入れるだろう。それは「何者でもなく」なりかけている僕にとって確かに魅力的なことだった。「淋しい」というのとはちょっと違う。自分が何のために毎日メシを食っているのかよく分からない頼りない感じ、夜中にふと目覚めてそこがどこだか理解できずに恐ろしい不安でパニックになるような状態、それが僕の大学に入ってから最初の数ヶ月だった。

僕がそれでもそうした勧誘に乗らなかったのは、そういうものが所詮ロクでもないジャンクだということを知っていたからであり、そんなものに僕の不安や頼りなさを引き取ってもらうのはあまりに安直で場当たり的な対症療法に過ぎないということが分かっていたからだ。それは正直言ってやせ我慢に近いものがあった。だって他に頼るべきものなんて実際のところほとんどなかったのだから。でも僕にはそんなところで道を踏み外す訳には行かないという負けん気があった。たいした負けん気ではなかったが、それでも僕は甘い顔をして人の不安につけ込む都会の罠に陥らず、自分の不安の中にこそ踏みとどまったのだ。

今ならそういう不安に対応するものとしてネットがあるだろう。とりあえず自分が何者かでいられる「ムラ」がそこにはあるからだ。だが、そこにあるのは電話線と電気信号だけだ。新興宗教や政治団体が結局のところ社会からのさらなるデタッチメントをしか与えてはくれないように、「ネット村」もそれだけでは自分をリアルな意味での「何者か」に変えてくれる訳ではない。そこで行われているのは所詮リアルな世界のシミュレーションに過ぎないのだ。つまるところ僕たちは自分の不安の本質を自分で見極め、自分でリアルな世界に働きかけるしかない。

僕がどうやってそのたこつぼから抜け出したかというと、やはりクラスでまともに話のできる友達を見つけ、好きな音楽に関係するバイトを探し、趣味の合うガールフレンドとつきあうという当たり前の方法しかなかった。この本で村上龍は引きこもりを何か現代社会の聖なる病ででもあるかのように描いているが僕はそれはあまりに一面的な見方であると思う。あふれかえるバーチャル・コミュニケーションの中でどのようにリアルを見つけて行くのか、僕たちに必要なのは「価値」の見出しにくい世界の中で自分に必要なものを見極め、取捨選択し、世界とコミットして行くその方法論であり具体的なメソッドのはずだ。そしてそれは自分の不安と向き合い、当たり前の社会生活の内側で悪戦苦闘することからしか始まらないのではないだろうか。


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