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永遠の仔 〈上・下〉
●天童荒太・著
●幻冬舎

重い本だと思った。虐待された子供の頃の悲惨な体験が人格形成に大きな影を落とす。人はそれを一生背負い続けなければならないし、人によっては自分の子供に対して同じ悲劇を繰り返さずにはいられないほど深く病んでいる。そんな、考えるだけで気の重くなるような、しかし避けて通ることのできない人の業(ごう)がこの本のテーマだといっていいだろう。

もちろんこの本で描かれたような虐待がどこの家庭でも当たり前に行われている訳ではない。しかしこの本の登場人物を見る限り、それがまったくの絵空事とも思えない。それは何か我々の日常と別の世界で行われていることではなく、同じ地平の上でグラデーション的につながっているできごとの一方の極に過ぎないのだし、だからこそ我々はこの本を読んでその「イヤな感じ」を共有することができるのだろう。

それはつまり、我々の子育て、教育がひとつ間違えば子供の心を激しく損なう可能性を秘めた危うい営みだということだ。虐待や放置の一方で過剰な関心や愛情を子供に注いでしまう親の存在も報じられるところだが、子供という近すぎる存在に対しての距離感がマヒしているという点ではこれらはみんな同根なのかもしれない。それを「現代社会」のせいにすることは僕はしたくないが、困難な時代のコミュニケーションを巡る根源的な問題のひとつだという気はする。

だが、この本を読んで感じたのは、子供の頃の悲惨な体験がその人の人生のすべてを不可逆的に運命づけてしまうとでもいったような一種の安易な決定論へと読者をミスリードしてしまうのではないかという懸念だ。この物語の指し示す方向はそうではないはずだ。物語の終わり近く、作者は悲惨な幼児体験を持つ主人公のひとり優希にこう語らせている。

「いつかは、これがわたしの現実、真の自分なのだと、この手に抱きしめられるときが訪れるでしょうか。
以前は、あきらめていました。でも、いまは、きっといつかはと、信じたい気持ちでいます。いくつもの悲しい出来事があったけれど、一方で、多くの人の支えを感じてきました。虚しさに引きこもらず、自分の現実を受け入れるために、努めてゆければと願っています」

幸福なものであれ悲惨なものであれ、幼児体験が人格形成に深い影響を与えることは抗いようのない事実だろう。しかし我々の人生は決してそれだけで決まるのではない。我々はそのような体験によって形成された性格、人格を運命的に背負いながらも、自分の生をよりよく生きようと努力する主体的な存在のはずだ。この物語は人間のそうした営みのありようを問いかけているのだし、自分の生を自分自身の手に取り戻そうとしてあがく人間の強さと弱さ、可能性と限界の物語として読まれるべきだ。そしてそのように読まれるとき、この物語は我々の生に向かう態度そのものを問題にしているということが理解されるし、それが告発する闇の深さに我々はもう一度戦慄するだろう。豊穣な物語世界だけが持ち得る根源的な力がそこにあると思う。

惜しむらくは文章が時折説明的に過ぎて物語の流れを邪魔すること、会話文に話し言葉としてのリアリティが欠けるきらいがあること、そして何よりミステリーとしての謎解きがあまりにご都合主義的だということだろう。だが、そうした点を割り引いても、現代人として必読の作品であることに変わりはない。


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